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2005年04月30日
科学者の宗教観
自然がどのようにしてできたのかを研究している学問が、その名のとおり「自然科学」なんだけれども、自然を追求しようと思えば、思うほど、「神」の存在にぶつかる。「神」をどういう形(?)で捉えるかは個人の自由だけれども、もしこの世界に始まりがあるとすれば、どうしても「神」が必要になってくるように思えるのだ。別に僕は何か特定の宗教を信仰しているわけでもなく、オカルト宗教などは度外視しているけど、そのような団体に所属する人の入信理由は何か自分の信じられるものがそこにあるからであろう。やはり人間は信じられるものがないと弱い存在らしいのだ。精神的支柱を築き上げるために、人は「神」を創造し、それを敬うのであれば、僕にとっての「神」は自然そのものなんだろうか。けれども、まったくもってその「神」は具現化しておらず、どういうものなのか説明することができない。「神」には時間や空間という概念がないだろうし、「いる」とか「ある」とかという言葉を使って「神」を指すこともできない。日本には、昔から火の神や水の神がいるとされ、実家でもそれらを祀ってあるが、僕はその感覚にとても親しみを感じる。「神」は僕らとはかけ離れているというイメージより、僕らに非常に身近だという感覚を大切にしようと思っている。
投稿者 はるお : 02:33 | コメント (101)
2005年04月29日
生理学会
5月18日~20日は日本生理学会の第82回大会が行われるのだが、開催地は僕の第2に故郷、仙台なのです。久しぶりに仙台に帰ることができるので、今から楽しみにしているところ。後輩が初めて仙台に行くみたいなので、見所教えてくださいって聞いてきたんですけど、敢えて言えば、「青葉城址かな…」としか答えようがない。楽天の本拠地は駅の反対側だよっとかいうと、「え~、遠い~」とか言われる。まあ、牛タンを食べてくれ、それは絶対お勧めなので。いちおう、利久を押しときましたが、店舗数増えてるような…。ということで、もし時間があるようなら、仙石線に乗って、松島まで行ったほうがいいからっと無難な回答をしておきました。
投稿者 はるお : 04:11 | コメント (115)
2005年04月28日
学習科学
帰宅して、テレビをつけたら、放送大学で「学習科学とテクノロジー」という科目をやっているところに出くわした。放送大学の講義ってパッとしないので、何の講義なのか最初分からなかったが、アメリカ(かイギリス)で開発された学習支援ソフトウェアの紹介がされていて、それの効用について話しているようなのだ。講師は三宅なほみさん。今日の講義で紹介しているソフトはJasperというものらしく、小学生に数学を教えるためのもののようだ。問題がストーリ仕立てになっていて、子供が興味を持って取り組むことができるようになっており、なおかつ問題解決能力を身につけさせるような変わった問題から構成されている。僕がちょうど見ていたときは、リンドバーグが大西洋横断を果たしたときの飛行距離、燃費、燃料と時速が与えられていて、それらをもとに終着点であるパリに到達することができるかどうかを考えさせるのである。普通に計算すると、リンドバーグはパリに到達できる燃料を確保していなかったことが分かるのだが、実際には横断を達成しているわけで、じゃあ、他にどういう条件があればいいのかなどを考えさせる。追い風がいくら以上ないとダメだとかね。こういう問題に立ち向かうことで、算数の実用性も生きてくるし、たぶん子供も解いていて楽しいんじゃないかな。受験のために勉強したり、ただ学習指導要領をこなしているだけの日本の教育現状を考慮に入れると、このような環境に子供が学校で触れることは皆無に等しいが、本当の思考力を養わせてやりたいと願うなら、前向きにこのような学習法を検討せざるをえないだろう。なんかNPOでも設立して、独自に学習改革を推し進めていきたくなってきたな。
2005年04月27日
究極の暗号
昨日の日記の続きになってしまうけれども、脳内の情報処理に関する暗号が解けたとき、脳を本当の意味で理解する”きっかけ”になるんだろう。それが理解されなければ、意識を研究対象にすることは論外中の論外である。つまり、僕たちは”心”を研究対象とするための道具さえ持っていないのである。僕が科学を続けている理由は物質的な豊かさを手にいれるためではない。あらゆる自然を自分が受け止め、それを理解し、精神を開放するためである。自分がなかなか辿り着くことのできない想像を絶した世界があることを認識することで、人間はより謙虚に生きることができるであろう。僕は恐れながらも、その自然の驚異を体感したいのである。そして、僕の持っている世界観を崩して欲しいのかもしれない。量子論や相対論を学ぶことから得られる様な畏怖の念を、脳科学から生み出すことができるのか、こんなことを考えていると、頭が本当に割れそうになる。脳は自分自身を理解することができるのか。現在の方法論では打開策が全く無いように思えてならない。
2005年04月26日
システム神経科学
ATRの川人光男氏が講義をしにやってきたので、久しぶりに興奮して講義室へ向かった。最近、神経科学の講義を聴こうという気はあまり起きないが、川人氏と合原一幸氏だけは別かな、でもどちらも理論家だけれど…。この講義は「神経科学入門」という講義の一環で、主に大学院生の単位になるものだが、今日の講義は満員御礼、いたるところから人が拝聴しに来ていた。酒井邦嘉氏もいましたよ。
彼がやっているのは計算論的神経科学と呼んでいるもので、現在は、脳を創ることによって脳を知るというアプローチでロボットの開発などに携わっている。人間がどういう形で情報を脳内で処理するのかという疑問を、常に持ち続けている人である。人間が歩くということは、どういう情報が脳内でやり取りされているのかという"脳内表現"を探りだそうとしているのである。アシモのようなロボットでは仕方がない、人間はああいう歩き方をしないわけですから…。人が脳内でどのような暗号を用いて、行動をしているかが最も重要なのである。僕もそれが一番知りたいわけです。
彼もここ数十年ずっと憤りを感じているらしい。なにせ脳内情報の符号化を解くような画期的な理論がまったく以って登場しないのだから。僕たちは未だ、脳内の情報を読み解く理論を持ちえていないのである。脳内のどのような指令が僕たちのどんな行動に結びつくのか、その答えを得るためには、僕を含め多くの人間が今後も苦しむことになるだろう。
投稿者 はるお : 00:52 | コメント (100)
2005年04月25日
一両目は…
今朝の快速電車脱線事故で未だに判然していないのが、第1車両に乗っていた乗客の安否である。マンションに倒れこみ粉砕している車両が先頭だと思ったら、なんと一両目はマンション1階部分の駐車場にのめり込んでいるというではないか。第1車両で「生存者を4人確認した」ということは、裏を返せば、それ以外の人はみんな息絶えているということである。通勤時間でほぼ満員であったろうから、多くの犠牲者の中にまみれて、生存者が何とか呼吸をしているのであろう。まさに想像するだけでも鳥肌が立つような悲惨さで、一刻も早い生存者の救出と、遺体の安置を願ってやまない。
2005年04月24日
外国語を学ぶ効用
以下は、とあるサイトからエッセイを書くように頼まれて、綴った文章の一部です。
自分の知らない言語を学ぶということはその文化的背景を基礎とした考え方の切り口を新しく気付かせてくれる格好の材料となる。にんじんを縦に切ったのと横に切ったのでは、その断面が全く異なるのは容易に想像がつくし、実際に作る料理によって切り分けているだろう。この世界に広がるあらゆる事象はにんじんより複雑な構造を持っていたり、ときにはその実体が物質でないことも多い。そんな複雑すぎるとも思える事柄が僕達を取り囲んでいる世界で、複数の視点を持つことがより本質的な世界観を構築するのに役に立つのではないだろうか。英語話者の持つ考え方の切り口を垣間見ることは、複数の視点で物事を捉える習慣を身につける良いきっかけになるだろう。今までに覚えていた価値観を見直す必要が生じたとき、落ち着いて両視眼的な考察を実践できるような素地を外国語学習から学び取りたい。
2005年04月23日
Sonyの新製品
いまや携帯HDプレーヤーと言えば、iPodが代名詞になっているが、ついにWalkmanを有するSonyがこの市場に割って入ってきた。SonyのWalkmanと聞いて知らない人はほとんどいないはずの超有名ブランドがアップルを駆逐するのか。今月発売になったSonyの新製品 Network Walkman はたまらなく魅力的ですよ。実はiPod Shuffleを買おうかどうか悩んでいたのですが、メニューやディスプレイがないのが気になっていたのです。あの携帯性の魅力に多くの人が取り憑かれたと思いますが、僕はあともう一踏ん張りして待っていたのです。そしたら、あの技術のソニーがやってくれましね。最低限のコントロール機能はついているようだし、ディスプレイもある。しかもデザインにもずいぶん凝ったんではないでしょうか、これは…。しかも、3分充電で3時間バッテリーが持つというのは結構驚異的!?本当にこれは買うかもしれません。いったいどこに在庫があるんだ。GW中に銀座のソニービルにでも行ってみようかな。
2005年04月22日
英語は延期
来週の月曜日に研究室に来る予定だったエリザベスさん(英語の先生)が所用で来れなくなったらしい。ゴールデンウィーク明けに延期となり、いきなり出鼻をくじかれた感じ。ちなみにエリザベスという名は女性の名前なのでしょうか。実はよく分かっていないです。
朝日新聞の夕刊の科学欄に、お茶の水大学が理科を教える小中高の教員に最新の科学知識を教える Science & Education Center を立ち上げたというニュースが掲載されていた。将来的には科学に強い教員を育てる専門職大学院に結びつけるという希望があるらしい。このニュースから分かる現実は、今の学校の教師は最新のホットな科学的話題を生徒に提供できないという背景が潜んでいるということである。どこまで本格的な教員の再研修ができるのか見守る必要があるが、できることなら、僕がこういう事業に関わっていきたい。でも、その時は1人でやり始めてしまうかもしれません。
2005年04月21日
4月中に終わる仕事
この間の2月からカナレッジという会社で、少しだけアルバイトをしていたが、その仕事も今月で契約が切れる。情報科学と生物科学の融合にどれだけ自分が貢献できるかという思いから飛び込んでみた世界だったが、実際にやってみて思って感想は、「溝は深い…」ということである。生物学的に本質を示している事象が膨大なデータとして情報に反映されることによって、実験だけでは見えてこない可能性がコンピューターという道具から垣間見れると考えていたのだが、彼らが扱っている”情報”はあくまで言語情報であり、うわべだけの論理構造に過ぎない。言語解析によって論文のアブストラクト(要約文)を正確に処理できるようになったからといっても、言語上には現れてこない科学的本質が必ずしも浮き彫りにはされないのである。彼らの取っているスタンスはあくまで情報を工学的に捕らえるというところにあって、僕の考え方との間に大きなギャップを生んでいた。確かに情報はツールの一つにしか過ぎないけれども、その情報を活用をして、もっと自然現象を多角的に分析してみたい。その情報の中に埋もれている法則性を発掘する日が来るのはいつの日になるでしょうか。いろんなところで、データマインニングを研究している人たちがいるけれども、いまだ黄金の輝きを持った”お宝”は出てきていないのではないでしょうか。それだけ難しいことなんだと思います。
2005年04月20日
英語の先生?
やっと自宅からインターネットに接続できるようになりました。制限がないとはいえ、ネットサーフィンをやり過ぎないようにしないといけません。中毒性があるものですが、上手に付き合って、有益な情報を発信できればと思っています。
ウチの教室では、ある学生の提案で、英語教室を開くことになりました。まだ始まっていないので、定期的にできるのかは不明ですが、教授の知り合いが先生をしてくれるそうです。カナダの大使館に勤めている人らしいのですが、勤務しているところの関係上、謝礼は受け取れないらしい…。もちろん、報酬を教室から出すという話で、切り出したはずだと思いますが、ボランティアでやってくれるということになってしまいました。こちらとしては、なんともお得な話なのですが、英語が出来ない学生を何人もいっぺんに相手しないといけなくなるんだから、気の毒のような気もします。早速来週の月曜日から始めるのですが、まだ何をやるのかは決まっていません。僕はプレゼンテーションの練習をしたいですね。それかディベートをするのがいいのではないかと提案していますが、どうなるでしょうかね~。
投稿者 はるお : 02:59 | コメント (100)
2005年04月15日
約1ヶ月
自宅でインターネットが使えなくなって、ずいぶん日が経ちましたが、来週の19日付でやっと復旧するらしい。1ヶ月以上オフラインになるとは思いもよりませんでしたよ。4月の頭には使えるようになると思っていたのに…。その間、学校で自分のウェブページを作るのはちょっと気が引けるような気がしたし、あまりそういう姿を人に見られたくない心持ちが強かったりして…、どうもご迷惑をおかけいたしました。ちゃんと予定通りウェブに接続できるようになったら、HPの更新、メルマガの発行の方を再開したいと思っております。研究に支障のでない範囲で頑張りたいと思っておりますので、これからも応援よろしくお願いします。
投稿者 はるお : 15:03 | コメント (113)
2005年04月13日
卒業条件の変更
なんと今年から博士課程の学位取得条件が変わりました。いわゆる副論文の提出が求められるのですが、その最終提出期限が9月の第1週らしいのです。副論文とは英文の国際雑誌に掲載される論文で、これが9月までに受理されていないといけないわけです。やばい、結構きついかも…。あと4ヶ月とちょっとしかないじゃん。いままで遊んできた付けが回ってきました。何がなんでも学位だけは取りたいと思っています。
2005年04月09日
花見
週末になった今日も暖かくて、居ても立ってもいられず、花見をしに出かけました。花見といっても、一人で酒を飲むのもバカげているので、お酒の匂いがしない庭園に行くことにしたのです。そのような庭園は入場料を取りますが、純粋に風景を鑑賞するためには、もってこいの場所といえるでしょう。で、今回選んだ庭園は、小石川後楽園です。
今までこんなに近くにいながら、後楽園には行ったことがありませんでした。後楽園は球場や遊園地や温泉があるところではなく、「後楽園」があるところですからね。汗ばむような陽気の中、自転車で早速、名の由来になった「後楽園」に向かいました。
途中文京シビックセンターを通過した際に、多くのスーツを着た女性の軍団に出会いました。何なんでしょう、この人の多さは。就職活動でもしているのでしょうか、男性も少しいるのですが、圧倒的に女性の数が多い。でも、写真とかを撮っている雰囲気から察して、何かの入学式のようなものだったのでしょうか、結局謎のまま、その場を颯爽と抜けていきました。
後楽園の入口ってこんな脇にあったんだ(たぶん飯田橋の方が近い)と思いながら、庭園の方へ向かっていくと、やっぱり結構人が多いです。でも、シビックセンターよりは全然まし、そこまでの窮屈さは感じませんでした。入り口で300円を支払い、入園しました。
入り口を抜けて目の前に庭園が広がる姿を見て、一番最初に得られた感覚は「奇妙」な感じというか、滑稽さすら漂いました。なぜなら、あまりに周りに人工物が多くて、彼らがかなり強い主張をしているのです。もちろん庭園内はきれいに整備されていて、目の前には桜も見事に咲いています。しかし、その後ろには何が見えると思いますか?真っ白な大きいタマゴ、そう東京ドームが背後にそびえているのです。桜のピンク色がドームの真っ白さを引き立てているようにも見えるのです。それだけに留まらず、前方右手には、東京ドームホテル、左手には、文京シビックセンターという高層タワーがそびえ立っています。ドームとシビックセンターの間を良く見ると、なにやらレールみたいなものが見えます。それはなんとジェットコースターの軌道だったのです。休日ですから、とある周期で乗り物が頭を出して、まだ下って消えていく姿が垣間見えます。
これは東京じゃないと見ることができない風景の一つかもしれません。本当に滑稽な感じで思わず笑い出してしまいます。とっても奇妙なのですが、なんかそんな風景を受け入れてしまう自分にも笑いが出てしまいます。いささかどこかのテーマパークにいるような錯覚を覚えるのは僕だけではないのではないでしょうか。
事実、小石川後楽園はテーマパークです。ここはいわゆる回遊式庭園と呼ばれる方式で、庭園内をぐるっと歩いてひと回りできます。そして、その散歩道の所々で、多くのアトラクションがあるのです。主に中国の名所と同じ名前の景観を配置してあって、庭を一周すると中国旅行ができてしまうわけです。さらに、清水の舞台を模した建物もあったり(今は焼失)して、さながら、昔ながらテーマパークになっていると考えてよいでしょう。人間っていうのは、「良いとこ」取りっていうのが本当に好きみたいですね。カメラ持っていけばよかったな~。
1時間くらい散策して、後楽園を楽しんだ後は神田の古本屋に行きました。何を探しにいったのかというと、アインシュタインが著した「相対論の意味」と「自伝ノート」です。どちらも基本的には絶版になっていて、いわゆる重版未定という類のものなんです。そこで、自然科学系の古本を扱っている明倫館書店という古本屋があるのですが、そこなら現物がすぐに手に入るかなと思い覗きにいったのです。ちょうど閉店間際でしたけれど、運良く前者の「相対論の意味」を発見することができました。状態も悪くないし、1200円なら買いですよね。
アインシュタインに頭が支配されたまま、三省堂書店にも入ってしまったため、勢いあまって、アインシュタイン関連の文庫本も買ってしまいました。岩波から出ている「相対性理論」と「アインシュタイン・ショックI・II」です。あとで、学校で買えばこれは10%引きなのに、っと気が付きました。相当頭に血が昇っていたらしい。でも、実は読む時間がなかったりして…。
投稿者 はるお : 22:57 | コメント (5355)
2005年04月05日
世界物理年
以前にも書いたことなのですが、今年2005年は世界物理年です。アインシュタインが相対性理論や光量子理論の論文を発表してから100年、没後50年の記念の年だということなのだが、全く普及しておりません。僕も宣伝に一役立とうと思っています。っといっても効果的な宣伝方法が見つからない。早くメルマガを復活させて少しでも普及活動に足を踏み入れなければ…。
偶然高校教員経験者の話を聞くことができた。3年ほど某私立高校で「生物」を教えていたらしい。彼女の結論、やっぱり学校は腐っている。心もとない教師との人間関係に疲れ果て、短い教員生活に終止符を打ってしまったようだ。
そもそも、教師が教壇に立った時、その教師は教室の中で独裁者となれる。多くの純真な学生の瞳が一心に自分に向けられている。教師は先生という名を欲しいままにして、その教室にいる学生を支配しているような妄想に駆られる様なのだ。たとえ小さくても自分が絶対的権力を持ち得る状況は刻々と人を変えていくのだろうか。
協調性を失い、傲慢になっていく教師ほどヘドロの出るものはない。そんな教師がこの日本には大勢はびこっているという現状が浮かび上がってきた。もちろん、こんな社会を変えたいと思っている教師もたくさんいるだろう。しかし、そう簡単に大成したシステムを揺らがすことはできないのだ。やる気のある教師ほど、ヘドロに耐え切れず、現場を去っていくという。
政治家だろうが、医師だろうが、教師だろうが、先生と呼ばれる人ほど、人間を一番に見つめなかればいけないのではないのか。日本の未来を、子供達の未来を明るく照らし出すためには、この先生達が献身して仕事をしていかなくてはいけないのではないか。
真の科学を知ることは人間の心を豊かにする効用があると信じている。目先の技術だけに捕らわれ、物質的な豊かさをこれ以上手に入れる必要はそれほど感じていない。自然を理解することで、ヒューマニズムの一部を少しでも養えたらいいなと思っているのだが、なかなかその道も平坦というわけではなさそうだ。