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2005年05月31日
冬より夏
実は夏が好きです。もちろん、夏になれば暑い暑いと文句を言うこともありますが、基本的に暑いほうが耐えうるのです。きっと多くの人が夏よりは冬のほうがいいと思うから、これにはびっくりするのかもしれない。たいていは、寒ければ重ね着すればいいけど、暑かったらこれ以上脱げないだろという論理である。でも、いくら湿度が高くても、気温が40度に達することはないし、日陰にいればぜんぜん耐えられてしまうのだ。むしろ寒いほうが動きが鈍くなって何もできなくなってしまう。純粋に寒がりなのと、冬眠遺伝子が活性化するからだっと勝手に思っている。これからの季節、太陽からエネルギーを少し分けてもらおうと思う。
2005年05月30日
道場第1回目
今日は夕方に産学連携本部主催のアントレプレナー道場第1回勉強会が開かれました。当初予定人数は50名前後でしたが、実際に参加した学内関係者は180人近くになったようです。起業精神を潜在的に持っている人が多いというのは、とても頼もしいことですが、もちろん興味半分で来ている学部生なんかもいました。第1回目ということで、今日話された内容は概要的なことに重点を置いていた感を否めませんでした。いかに東京大学がアントレプレナーシップを応援できる体制を整えているかを宣伝して、モチベーションを高める効果を狙っているのでしょう。どんなに小さいシーズでもアイデアしだいで化け物になるかもしれません。また、ビジネスプランコンテストを模した企画であることも、ほのめかしていました。せっかくですので、この機会を大いに活用してみようと思っています。次回は約1ヵ月後で、それまでに事業内容をまとめたビジネスプラン書き出しておこうと考えています。
2005年05月29日
OCW
MIT(マサチューセッツ工科大学)には、講義資料を一般に公開しているOCW(Open Course Ware)というものが存在する。そして、最近日本でもこれと同じ試みが国内の主要六大学で始まっているらしいのだ。今月になって講義情報がインターネット上に公開されたというアナウンスがされているのだけれども、未だ発展途上であって、十分な情報が公になっているとはいえない。このプロジェクトの狙いは、無償で講義教材を提供し、学生や社会人の教育に役立てることだと思うのだが、本格的に役に立つ様になるのに何年くらいかかるのだろう。現在はシラバスを少しずつ公開し始めているようなのだが、シラバスを公開したって実際に講義を受けなければ学習としての意味がないのではなかろうか。どれほどの教材提供能力が養われていくのか今のところ予想がつかないけれども、このプロジェクトの発展に貢献できることを自分なりに模索している。
2005年05月28日
生きがい
人間以外に「生きがい」を求める動物はいるのだろうか。多くの人は「生きがい」がないと生きる力が沸いてこないことを実感したりするが、人間ほど生きがいを求める生命体も他に無いような気がする。もちろん、それは僕の推測に過ぎないから、本当のことは分からないけれども、やはり人間にしかないと思われる心理は結構あるのであろう。チンパンジーと人間とでは、ゲノムの99.9%が相同であると言われているから、残りの1000分の1に人を人と足らしめる神秘が隠されているのだろうか。比較ゲノムの研究は最近もっぱら盛んであるが、人ではターゲットとする遺伝子の破壊実験ができないから、「人間遺伝子」の機能まで追究する事はできない。そうなると、多少なりともトップダウン的な手法で精神の研究をしていかなければならないだろうが、未だ手がかりなしか。
人間が高度な社会文明を作り上げたことが人間の「生きがい」という言葉の発生に結びついたのは確かだろう。しかし、本来「生きがい」というものはあらゆる生命体には当たり前のようにあって、気付いていないだけなのかもしれない。人間は文明を作り出したことで「生きがい」を失った(もしくは、「生きがい」を失ったと勘違いしている)状況に生命史史上初めて陥り、そこで生きる目標を設定し直さなければと思い込み、苦しんでいるようにも感じられる。どちらにしろ、文化の発生との因縁は切れそうも無くて、科学的洞察を繰り返す限り、この呪縛からは解き放たれることはなさそうなのである(なぜなら、科学は文化活動だから)。
この人類の文明化はヒトの遺伝子を解析することで説明がつくのだろうか。はたして、文明化の達成が遺伝子の仕業なのか少し懐疑的なところもある。しかし、いまのところ、遺伝子(タンパク質)の違いくらいしか明確に他種と区別できないので、ゲノムなしで生命を語ることができない。ヒトが人になった時に起きた変化は一体何なのか、たぶんきっかけとなった変化はホントに微小であろう、しかし、その微小な変化がとんでもない結果を生み出してしまった。まさにカオス的振る舞いである。
2005年05月26日
オンラインカジノ
日本ではカジノは違法ですが、ラスベガスや韓国では合法なんですよね。NHKのドラマでも扱っているくらいですから、外国人が韓国へ行ってカジノで遊んでも捕まることはないのでしょう。ギャンブルというのはどうも抵抗があって手が出せない質なのですが、中学生のころ、デパートの屋上にあったコイン式のスロットマシーンで大当たりを出したことがあります。たしか卓球の試合で立川に行き、その帰りに友達と一緒にデパートで遊んでいた時のことです。学校のジャージを着ていたような気がします…。で、そのスロットマシーンからあまりにコインがいっぱい出てくるものだから、受け口から溢れてしまって、みんな驚いていました。もちろん換金できないので、友達にコインを分け与えて全て使い切りましたが、今思い起こすと、スロットマシーンというのは払い戻し率が非常に高いということに薄々気がついていたのだと思います。みんなは競馬ゲームをしたりして、ギャンブルもどきを楽しんでいましたが、僕はずっとスロットマシーンをやっていました。なぜなら、賭けても賭けてもそんなにコインが減らないのです。常に賭けた分くらいのコインは戻ってくるから、いつまでたっても遊ぶことができて、いい気になって、ひたすらスロットを回し続けていたのです。そしたら、あるとき7が3つ揃ってしまって、ジャラジャラジャラ~ですよ。こんな昔話をフッ思い出し、オンラインカジノにでも挑戦してみようかな~などと思ってしまった昨今でした。
投稿者 はるお : 02:45 | コメント (330)
2005年05月25日
モニカ・ブレッサッリア
またもNHK教育のイタリア語会話から話題を一つ。出演者の方々がなんとも色濃いイタリア語講座ですが、もちろん、その中にはネイティブのイタリア人も登場しています。昨年から引き続き出ているモニカ・ブレッサッリアさんという方がいるのですが、なんと彼女、語学教師の仲介サイトSenseiSagasu.comに登録されています。これを見つけたときはかなり衝撃で、彼女からイタリア語を個人レッスンしてもらおうかと思いましたが、レッスン料があまりに高すぎます。1時間9000円というのは、かなり暴挙の様な気が…。でも、彼女ならそれでも生徒がつくんでしょうね。彼女の自己紹介文はイタリア語で書かれていますが、訳すとこんな感じでしょうか。「Hello! I am Monica of NHK イタリア語会話! Do you want a coffee and to study Italian with me? You write to me! I wait for you!(こんにちは、NHKイタリア語会話に出ているモニカです。コーヒーでも飲みながら一緒にイタリア語を勉強しませんか?メールください、お待ちしています。)」 テレビに出ているのに、それだけでは生活するのが厳しいのでしょうか。語学教室でもレッスンをしているようですが、もし、だれかこの美人な先生にイタリア語をマンツーマンで教えてもらいたかったら、連絡してみてはどうでしょうか。
投稿者 はるお : 02:38 | コメント (2358)
2005年05月24日
カオスの伝道師
前回の川人先生に続き、合原一幸先生の講義が大学院生向けに開かれたので、意気揚々と聴きにいく。まず始めに総論として、有名な「老婆と若い女」の多義図形を用い、脳の認知機能をカタストロフ理論で表面上説明しうることを示してくれた。もちろん、これはうわべだけの数理理論なので、1970年代に破綻しているが、現象論的に、3次関数を用いた数理モデルで説明可能であることに面白みを感じた。では、脳の認知機能が表面上、カタストロフ理論になるための根本原理は何かというと、それは分からないのだ。少なくとも、これまでに、脳の認知機構を記述しうる第一原理は見つかっていない。やはり、その原理を抽出するためには、実験データが必要なはず、神経という性質を持った細胞から目を離さずに、どうやって根底原理を引き出すのか。多くの人が関心を持ってはいるが、なかなか気が遠くなりそうな作業であることは言うまでもない。
投稿者 はるお : 01:56 | コメント (15360)
2005年05月23日
光速への挑戦
もし、自分が光速で移動することができたら、自分は光になってしまうのだろうか。自分が光になりうるための条件とは一体何なのだろうか。きっともう少し相対性理論を勉強すれば分かるのだろう。もう少しの我慢である。
光速が絶対的な基準となりうる法則の中では、時間の概念は幻に過ぎない。これまでの多くの物理学者は時間を軽視してきたような気がする。時間が幻だといえども、僕たちは毎日その時間が過ぎ行くのを感じているのだ。主観的に感じることができる時間という概念をこのまま科学的に無視し続けていいのか。一体時間の本質は何なのか、その時間を体現するのに必要な脳内表現はどのようなシステムなのか。僕たちの前に立ちはだかる"時間"の壁は依然として大きい。
2005年05月22日
自然への帰化
仙台から戻ってきましたが、東北が恋しくて仕方がありません。実は今回、秋田県の乳頭温泉まで足を伸ばし、東北の自然を堪能してきました。なぜ、木々の緑はあんなにさわやかな色なのでしょう。自然に覆われた小径を散策していると、その中に溶け込んでいきたくなる衝動を覚えます。どの木々も色が異なります。同じ緑は存在しません、風景を見ていて飽きない理由は、まさに自然の多様性にあると言えるでしょう。緑色の塗装で"杜の都"をイメージした内装を見て、そこから発する深緑色が真に深みを持つことはないような気がします。車や列車に乗って、風景を見ている時間は無駄どころではなく、最も充実した一時になり、心が癒されていく極上のもてなしと感じられた東北への旅路でした。
2005年05月17日
日本生理学会
明日から、3日間は日本生理学会で仙台に赴きます。今回、初めて「はやて」に乗る予定、切符も確保済みです。パソコンは持っていかないので、会期中、日記の更新はできません。また土曜日から再開したいと思います。それでは、行ってきます!!
2005年05月16日
圧迫感
ここに来て、毎日のように圧迫感を感じる。今年は博士論文を書き上げて、卒業を目指さなければならないのだが、その締切が僕を追い詰めるのだ。博論を書く過程を少しでも楽しめれば、心持も違ってくるのかもしれないが、研究結果自体もさほどユニークなものではなく幻滅している。苦しくても博士号は取っておくことが必要だということは自覚しているし、取らなければ研究者として何も始まらない環境だ。心の奥底では、もっと視野の広い研究を手掛けてみたいと願い続けている。しかし、その前に視野の狭い仕事を嫌でもまとめ上げねばならない。もちろん、そこから得られるものもあるはずだ。けれど、今年は精神的に最も負荷がかかる年であろうか。
2005年05月15日
マンボウ・マークⅡ
ゴールデンウィーク中に頼んでいたマンボウ・マークⅡが届きました。ウチでパソコンを使って作業しているときに背もたれが欲しいなぁと思って買ったのですが、到着してびっくり、結構大きいかも…。これはちゃんと部屋を片付けないと置けそうにもないと思ったのですが、今日はその気力が起きず、ひとまず放置しております。
僕は椅子に腰掛けるよりも、地べたに座るほうが好きで、コタツや煎餅布団を愛しています。「日本の床文化に合わせたマンボウソファ」という謳い文句に釣られて購入してしまいました。これでますます仕事が捗るのか、それともリラックスしすぎてしまい行動が鈍ってしまうのか、その答えは前者であることを期待しています。
2005年05月13日
13日の金曜日
今日は本当に日が悪い。まず、なぜか朝5時に目覚めてしまい、その後眠れなくなってしまった。こんなことなかったのに、一体どういうことなんだろう。体が興奮しているのか。
夜、いつものように、竹内さんの相対論の話を聞きに行ったけれど、いままで終始和やかだった授業風景が一変、講義に文句をつける親父が登場した。先週授業終了後に質問をしていたおじさんだったんだけれども、ついに彼の堪忍袋の尾が切れたのか、一人で勝手に持論を展開し始めた。他の生徒には甚だ迷惑な話である。
もちろん、持論があることが悪いことだとは思わない。しかし、この講義は、相対性理論として物理学会で定説となっているものを、相対論初心者に分かりやすく教えるという趣旨のもとに行われている。つまり、ファインマンが講義をするのと同じように、竹内さんは相対論について講義をしているわけだ。彼の反論はファインマンの解釈が間違っているといっているのと同等で、それはそれで、物理学会に疑問を投げかければいいだけの話ではないか。質問が着火剤となり良い議論に発展することもあるが、彼の場合は、タダの講義荒らしである。自分で講義を持てばいいじゃないか、それなら、いくらでも自説を聴衆に展開できると思う。
講義終了後はみんなでヤケ酒(?)、こういう文句をつけてくる人は電気系の人に多いという。理由は分からないが、理論が成り立たなくても、回路のような実体が成り立つことが重要だと思っているからではないかと推測している。そう考えたら、物理学者と生物学者は根本的に仲良くなれそうもない。生物学者は実験して得られた結果に重点をおいており、近似などのアバウトな概念を嫌う。領域を超えた学際的な研究が必要だと叫ばれているご時世だけれども、それぞれの領域が含有する哲学の差に大きな隔たりを感じぜずにはいられなかった。
投稿者 はるお : 01:06 | コメント (105)
2005年05月12日
現実逃避
うつ病患者の8割程度が不眠を訴えて睡眠不足に悩んでいるそうだが、現実逃避という観点から見ると、眠り過ぎというのも大きな問題を抱えているような気がする。統計的にうつ病の人の何割が眠りすぎになっているのか不明だけれども、大いにしろ少ないにしろ、眠りになんらかの異常が出る人は精神的に追い込まれているのではないか。それを病気と判断するかは個人によると思うし、医学的判断基準が意味を成すのかどうか難しいところである。それは性格だからとか、一時的な落ち込みだとか言われてしまったら、助けにすがりようがなくなってしまい、その人はますます窮地に追い込まれていく。心の安定を与えてくれるような相談機構の発展も必要だけれども、やはり身近にいる人がどれくらいその人を気遣ってくれるかが最も重要なんだろう。その扱いが最も難しいことも身に沁みているのだが…。
投稿者 はるお : 03:44 | コメント (156)
2005年05月11日
ひらめき!
今日は画期的なビジネスモデルを思いついた。もちろん、教育に関わる事業なのだが、もしこれが実現すれば、大学生も、一般の市民も大いな恩恵を受けられることになる。現段階では高校生以下の学生をフォローすることはできないけれども、事業化が本当にうまくいったら、更なる教育の拡大を進めていきたい。よし、この話を産学連携本部に持っていってみよう。そして、東大TLOと組んで、学校もその利益の恩恵を受けることができるシステムにしなくては。しかも、グッドタイミングなことに、産学連携本部が、本学の学生を対象に「アントレプレナー道場」なるものを開催するらしい。明日早速申し込んでみよう。なんか研究よりワクワクしてきた。
2005年05月10日
博士(はくし)が100にんいるむら
なんとも笑えないホームページなんですよ、博士(はくし)が100にんいるむら。最後のオチはかなりブルーですね~、でも、これ以外はかなりの信憑性があります。実際に平成12年くらいのデータを使ってつくられたものらしいのですが、フリーター(ポスドク)や・無職の数は年々増加しているようです。他分野に流出している人・消息が不明な人、なんか他人事ではありません。僕が博士になれたとしたら、どんな村人になっているのでしょうか。不安を通り過ぎて、もう呆れ返っています。とにかく、挫けないよう努力していくしかありません。
投稿者 はるお : 02:06 | コメント (8337)
2005年05月09日
HP更新中
リンク集をつくったり、日記の見栄えをよくしたり、そんな大したことしていないのに、時間だけが食われていく。こういうパソコン作業に持っていかれる時間ほど悲しいものないとひしひし感じた。自分ひとりで何でもやるっていくのには限界があって、よく分かっている人に手伝ってもらいたいという気持ちがあるが、今のうちは何でも勉強ということにしておこうか。将来役に立つことはあまりない気もするが…。
そういえば、NHK教育で放送されている語学番組っていろんな大物を使って盛り上げているようですが、今年度はイタリア語会話が面白いかも。生徒役のパパイヤ鈴木は無駄な動きが多すぎ、言語は習得できなくても、バラエティー番組として視聴するのにはいいかもしれない。しかも貴乃花が出ていた回もあって、びっくりした。その一方今年のハングル講座はピンと来ませんね。こっちの方がNHKらしいです。
2005年05月08日
0か1か
0か1かなんて言うと、デジタル信号を思い浮かべてしまうけど、「有る」ことと「無い」ことには雲泥の違いあるような気がする。そして、1つでもあれば、2つあろうが、たくさんあろうが、0と1の格差ほど隔たりがないのではないだろうか。英語では、単数形と複数形とがあり、「1」とそれ以上の数を区別する言語体系であるが、僕はむしろ、0と1を明確に区別したいと思っている。
例えば、スポーツのような競技としてその順位を争う場合は、1は「勝ち」で0は「負け」である。それは1位になった人だけが「1」であり、残りの敗者は総て「0」になるのである。もちろん、2位や3位になった人たちだって素晴らしいし、その努力は誇りにすべきだ。しかし、結果的に2位以下に甘んじても、彼らだって「1」(優勝)を目指していたはずである。田村(谷)選手の名言、「最高でも金、最低でも金」は、「1」にこだわるトップアスリートの不屈の精神の表れだろう。
では、文化活動においてはどうか。科学の世界にも競争があり、同じようなテーマをやっている研究グループのうち、どこが一番最初に成果を出すかというような争いが行われている。アメリカ主導型の科学研究手法は、この競争に勝つため、最新の情報や機械を駆使して、まさにNo.1を目指して、汗を流していることになる。科学を文化として捉える場合、こんな「1」の取り方だけでいいのだろうかと疑問に思う。
僕はそういう科学が蔓延していなければ、科学を続けたい思う。科学の醍醐味の一つは、誰もやっていない分野を開拓することも含まれているはずで、そこに真の創造性があるといっても過言ではない。そういう研究者を評価する能力がこの国には存在するのか、学閥なんていう言葉が氾濫している以上、悪質な政治力が未だ科学界を腐らせているようでならない。同じ「1」でも、Only 「1」を目指す環境は常に不遇だ。しかし、この「1」を捕まえることに人生をかけたい。そこに本当の意味で、「0」と「1」の差が果てしないことを痛感するはずである。
2005年05月07日
前はどっち?
この世界で方向を決めているのは人間である。人間が勝手に、こっちが前とか後ろとか、右とか左とか、東西南北とかいう方向を規定しているのである。前に進むと言った場合、顔面の向いている方向、足が自然に運動する方向に移動することをさすのだろう。しかし、登山のように、最終到着地点が決まっている場合には、後ろ向きに歩いても「前に」進んでいると言うのかもしれない。となると、「前」という形容を使うためには、具体的に目指すべき目標(登山の場合は頂上)が掲げられているのではないだろうか。そうなると、「前向きに生きる」といる表現を使うとき、その人には明確な生きる目的がある状態と考えることができる。だから、僕はこの言葉をうまく使いこなすことができない。それは自分が「前向きに生きて」いるのかどうかよく分からないからだ。僕が生きている目的は、「生きるため」。生きること自身が自己組織化して、生きることに帰着する。「生」そのものに絶対的な価値を置いているのだ。僕は当分「前(後ろ)向きに生きる」という言葉を使えそうにない。何か代替的な目標を具体的に提示できる人は爆発的に能力を発揮できるのではないだろうか。
2005年05月06日
生活リズム
ここにきて、だいぶ生活のリズムが崩れてしまい、昼夜逆転傾向になってしまったので、今日は徹夜しました。もう眠いです。明日はちゃんと太陽を拝める予定です。徹夜明けのくせして、竹内さんの物理講座を聞きにいく。相対性理論の2回目、前回の講義から一ヶ月程度経ってしまったので、エンジンがなかなかかからず最初動転してしまった。時空図の概念から、ミンコフスキー図を自分で描いたりして、大体のことは理解する。直交座標と斜交座標を重ねて描くのが一般的なのだが、そのとき、ローレンツ収縮により、斜交軸のメモリの幅が大きくなる。これは、これでいいと思うのだが、講義終了後に質問をしに来た人が、メモリの幅を双方同じにして、2つとも斜交座標を用いる方法について考えていた。う~ん、確かにそのやり方もありのような気もするけど、視点が中立的過ぎて僕には分かりにくかったです。竹内さん曰く、この方法だと次回の講義で説明する「双子のパラドックス」や「遅れる時計」などを理解するのに混乱するんじゃないかと懸念しておりました。あのおじさん、どこかの学校の先生なのだろうか。
2005年05月05日
イーオン
日本という国は生活するのに全く持って英語を使わなくても問題ないから、英語を身につけるなら相当意識して英語に毎日触れ続けないといけない。そう思っていても、なかなか普段の仕事が忙しくて、自分から英語を発する機会というのはそう多くない。論文とかで毎日のように英語を読んでいても英語の思考にはなっていないです。もうとにかく英語を使わなくて生きていけないような環境に身をおくことが英語習得の近道ではあるだろうけど、そんな環境はしばらく作れそうにないので、電話で話し相手を見つけてみようと考えた。
本来なら英語をしゃべる友達でも作って、駄弁ってればいいんだろうけど、ここは時間をお金で割り切ろうと思い、イーオンのネットライブレッスンに申し込んでみた。僕が選んだのは、IP電話ライブ英会話コースで、1日30分、1回665円だから比較的良心的な価格ですよね。6回単位での引き落としになるけど、そのくらいなら負担も少ないかな。最初の一ヶ月はお試し期間らしいので、とりあえず、今月は学校行く前に電話で英会話です。体験レッスンは他に受講者がいなくてマンツーマンだったので、良いように感じただけかもしれないし…。
2005年05月04日
自分のしたいこと
自分がやりたいことっていうのは、やってみないとわからないから難しい。どうせ、仕事をするならやりたいことをやりたいと思うのは必然だろう。だからといって、自分のやりたいことがもう見つかっているとも限らない。
最近思うことは、仕事をやる上で、何を目指したいかということより、その作業自体が好きかどうかということがかなり重要だということである。目指している理念が素晴らしくても、毎日のように繰り返す作業に耐えられなければ、最終到達地点に達することができず、意味をなさなくなってしまう。
しかし、自分の目指したいものがかなり明確に示されているならば、そのような苦痛を伴う仕事でも、精神力で乗り越えることができるだろう。どんなことをしても達成したい目標があれば、それを目指して人は頑張れるような気がする。
科学をやる人間も同じである。自分の目指すべき目標に向かって研究することは素晴らしい。しかし、現実は、後付けで考えたような目的を掲げて、既存のルールに沿ってゲームを楽しんでいるかのようである。ゲームから何か素晴らしいものが生まれることもあるだろう。まさに、そのゲームを楽しめれば、科学をやっていて辛いことがないのである。僕はこれ以上、このゲームに付き合いきれそうにない。今後、何か自分の信じられる検証可能な仮説を明瞭にすることができるか、正念場である。
2005年05月03日
夜型
僕は非常に夜型になりやすい。たぶん自分にとっての最適な睡眠時間というのが人より長いことが原因のような気もする。普段は大体6時間寝て、18時間活動するというパターンが多いけれども、休みと日となると、睡眠時間が10時間を越えてしまう。全くこの間起きることはないし、毎日10時間寝ることができる自信もある。しかし、活動したい時間を減らしたくないので、その日の就寝時間が遅めにずれ込んでくるのである。12時間寝て、18時間行動すると、1日のサイクルが30時間、これが僕にとって最適なのかと思いきや、そうでもなかった。人間はやはり25時間サイクルみたいで、睡眠時間を増やしたら、活動時間を減らさないと心臓がバクバクいってくるから不思議だ…。
2005年05月02日
たんなるナマケモノ
雇われるという身分が最近嫌で嫌でしょうがない。たとえ、アルバイトであっても雇われていることに変わりないわけだから、その時間は会社にわが身を捧げなくてはならないはずだ。例にもれず、研究者になるのだって、大学や研究所に雇われなくてはならない。そのような機関に所属していなければ、科学研究費を取得するのは限りなく難しい。今の時代、お金がなければ科学ができない世の中になので、研究者として生きていくなら、何かに所属していなくてならないということになる。
僕に所属欲求がないわけではない。本当に独りぼっちになってしまったら寂しいと思うし、その所属したコミュニティーがかけがえのないものになる可能性を秘めていることも知っている。しかし、何かに雇われるという形で、ある団体に所属するのはどうも心が疲れてしまうのだ。普通のサラリーマンに比べたら、(たとえ雇われているって言ったって)研究者は比較的自由に仕事ができることだろう。それに、限られた環境の中から素晴らしいものが生まれてくることもある。そういうことをひっくるめて考えても、やはり自分は解放されたくて仕方がない気分でいっぱいである。結局僕は仕事をしたくない単なるナマケモノなのかもしれませんが、科学は本来巨額なお金をかけてやるものではなく、新しい自然観を創り上げたいという気持ちに最も価値があることを忘れてはいけないと思っている。
2005年05月01日
買い物
最近試しにコープ東京の宅配サービスを頼んでみたのだが、自分の相性に合わないことが分かった。今週でお試し期間の6週目が終わるので、生協に連絡して出資金を返してもらおう。食料などを買出しに行かなくて済むから楽になるのかなと思い、ためにし利用してみたのだが、カタログを見ながら品物を選ぶというのがどうも僕にはダメらしい。臨場感もないし、どういう現品が届くのか実感がつかめない、それに正直カタログを眺めていてもつまらないのである。やっぱり、お店に行ってあれがいいかな、これがいいかなと悩んで買ったり、自分の目で現物を選りすぐれることが楽しいようだ。これからもいつも通り、週末は買出しに行くことにしようと心に決めたのでした。