« 2005年06月 | メイン | 2005年08月 »
2005年07月31日
週末といっても
今週末は隅田川花火大会があったりして、街を歩いている人も浴衣姿の人が多く、なんか和みました。僕は見に行くことはできず、音だけ鑑賞(?)していましたが、それだけでも風情を感じることができて日本がまた好きになりました。そんな中で、自分がやっていることはビジネスプランの策定のポイントは何かと考えてたり、アスクルという会社の成り行きを考察していたりして、なんか味気がないような…。職人を目指すなら常に誰かに雇われている方がいいのかもしれません。自分の技に磨きをかけ、自分を買ってくれる人を確保できれば、生活も豊かになりますしね。ともあれ、今はやろうと思ったことをこなしていく事しかできないので、しばらく走り続けてみます。
投稿者 はるお : 08:02 | コメント (228)
2005年07月30日
経営者と研究者
会社を経営することほど、研究者のやることとかけ離れていることはない。特に、会社の規模が少し大きくなりだし、自分ひとりで全て管理できなくなり始めるとき、研究者気質の追求は会社を倒産へ追い込むのだ。僕は管理職にも就いたことがない上、研究者という職人気質の仕事しか経験したことがない。この仕事は自分で全てをやり、自分が全ては把握し、自分で仕事を纏め上げる。そう、専門的な仕事を徹底的に掘り上げ、自分の目の届かないところを残さないのだ。しかし、経営者が全ての仕事を請け負ったら、身体がいくつあっても足りない。自分がいなくても効率的に仕事が動くシステムを会社の中に確立していかなければならないのだ。それが経営という仕事であり、社長の仕事なのであろう。人間の視点というのは往々にして、近視眼的になる。あらゆる視点を的確に切り替え、経営というものと研究というものを適切に遂行できるよう、あらゆる世界を鳥瞰していこうと思う。
投稿者 はるお : 00:12 | コメント (120)
2005年07月28日
mixi
友達からmixiへの参加を勧められたけれども、どうも気乗りがしない。直接紹介されないとmixiのメンバーになれないということだから、いい参加機会なのかもしれないけれど、あの馴れ合い的な雰囲気がとても嫌なのだ。いろんなことが話せるコミュニティーサイトの意義は大きいと思うから、そこから得られるものも多々あるんだろう。けれど、やはりあの2チャンネルの様なネチネチさは払拭できないのではなかろうか。インターネットは便利だが、その裏にある罠にはまらないよう活用していきたい。今回は、ひとまずmixiへの参加を見送る決断をすることにした。
2005年07月27日
初モニター
今日は学生モニターとして竹内さんの講義を聴きに行く。朝日カルチャーセンターに来られる方は、基本的に高齢者が多く、若い人たちの積極的な参加が望まれているらしいのだ。この制度が本当に講座の活気付けになるのかどうかは判断に苦しむが、僕ら学生にとっては大変貴重に思える。今回、僕以外にも、学生モニターの方が一人いて、講座が始まる前に一緒に説明を聞いた。そしたら、彼女は同じ大学の数学科の学生だと判りビックリ!、しかも、まだ学部3年生である。もう、natureやscienceなどの科学雑誌に興味があるのだろうか。彼女自身は英語の勉強になるだろうという考えで来ているみたいなのだが、その年齢で竹内さんの講座を見つけるなんてなかなか渋いと思う。僕が大学3年生の頃なんて、まだまだ遊びほうけていた時期じゃないか…、やばい、もっと勉強しなくては。
投稿者 はるお : 04:33 | コメント (146)
2005年07月26日
昔話
近頃、昔のことを思い出して感傷に浸っているときがある。過去の事実に思いをはせていても、未来が変わるわけではないだから、意味がないように思えるが、現在の自分がいるのは、過去があるおかげなのだからその重要性を噛み締めてもいいだろう。過去の自分が自分であるという記憶が現在僕が生きていける糧である。楽しいことも悲しいことも全ての思い出をひっくるめて、僕はその記憶に支えられていて、何とか現在を歩いているわけだ。この過去から未来への連続性が否定されたとき、ある種の絶望感みたいなものを感じ、人間は悲しみに打ちひしがれるのかもしれない。このときに残る中途半端な記憶が人の心を激しく抉り取るような利器にもなりえる。昔を知る記憶の存在はまさに諸刃の剣であるが、たとえどんな記憶であっても未来につなげていけるように精進したい。
2005年07月25日
第一次予選通過
アントレプレナー道場の第一次予選を無事通過した。32チームからの応募があり、20チームが次のコースへ進むことができたという。自分としては、結構本気でこのプロジェクトを成功させたいと思っているので、こんなところで落ちるわけにはいきません。必ずや10月に行われる最終選考まで生き残れるように全力を傾けていく所存だ。今回の結果報告を聞いて思ったのは、意外に選考に外れたチームが多かったこと。事前の説明では30チーム位は残したい気持ちがあるようなことを言っていたから、合格判定基準を高くしたのだろうか。
僕たちは来週の月曜日に行われる勉強会に参加することが許され、激しく意見を交換することを求められる。もう早速、来週までにやらなければならない宿題も出ていて、本格的なビジネスプランの練り上げに努力を惜しむわけにはいかない。自分のアイデアをいかにして社会に売り出すかという理屈を産学連携本部のスタッフから学びとっていきたい。いままでの研究室で行っていた思考とは別次元の考え方を身につけ、科学の普及と産学連携の発展に寄与できれば良いと思っている。
投稿者 はるお : 02:24 | コメント (103)
2005年07月23日
震度5
湯飲みが落ちた!見事に今回の地震で瀬戸物が割れたのだ。もともと食器を置いてある棚は安定したものではなかった上に、湯飲みを幾重にも重ねておいたから当然の結果といえば当然だろう。
本気で耐震対策をする気になった。地震が来たら危ないと思われる箇所が自宅に3つあることは自覚しているのだが、全く以って危険を放置したまんまである。テレビ、本棚、食器棚、これらは震度6以上になれば必ず倒れることが想定されている。だから、僕はそれらが倒れてきても大丈夫なところに布団を敷いて寝ているのだ。やっぱり災害にあってからでは遅いという基本的な考え方を肝に据えて、耐震対策に乗り出そうかと思っている。
2005年07月22日
木ノ花さくや
梅雨も明けて、本格的に夏休み突入のシーズンだろうか。多くの人がいろんなところを飛び回り始めている。いつものように竹内さんたちと宴を囲んでいると、沖縄から上京された漫画家夫妻がご登場になられた。二人合わせて木ノ花さくやというユニットでマンガを描かれており、合作の場合はこの名前を使うのだという。それぞれ漫画家としてのペンネームは、にしの公平さんと西野つぐみさんである。
最近沖縄に移住する方が増えているそうだ。クリエイターのような仕事が場所に依存しないで成り立つ人に多いという。しかし、たとえ人里を離れても刺激を受けることを忘れないでいてほしい。人間の創造力は、必ず外部からの入力に触発され、頭の中でよくこなれることで実現する。つまり、入力の質を落とすことは作品の質の低下に直結すると思うのだ。人間の活動というのは無限の可能性を秘めているが、出力にはある程度の有限性がある。その限界値を少しずつ上げていくことにクリエイターとしての真価が問われるのかもしれない。生活雑音がなくなることは好ましいことであるが、少なくとも、今まで感じてきた刺激を感受し続けてほしいと願っている。
2005年07月21日
日本の神
日本の宗教的背景が神道にあるものとすれば、そこにはあらゆるものを一度受け入れるという精神がある。日本人が神も仏も受け入れることができる理由は、いい加減な精神構造を持っているからではなく、あらゆるものに神が宿るとする寛容さそのものなのであろう。日本には絶対的な神が存在しないことが特徴であり、僕はこの思想が甚く気に入っている。自分の周りに広がっている自然のありのままを受け止め、自分の感じたことを純粋に表現する。個人個人がそうであれば、絶対的真実に一体どんな意味があるのだろうか。科学は絶対視が付き纏いやすい学問に他ならない。人間の営みの中で、最も客観性を重んじていることは確かである。そんな中で、科学の主観性をどれだけ多くの人に理解してもらえるか、ここに文化としての科学を普及する一つの手かがりがあるように思える。
2005年07月20日
自分への衝撃
子供の頃、ノーベル賞というものはとてつもない輝きを放っているように思えた。もちろん、今思い返しても素晴らしい偉人が歴代の受賞者であること確かだ。しかし、最近はノーベル賞の受賞内容にあまり感動していないように思える。
ノーベル賞は僕にとって憧れのはずだったのに、そのインパクトは間違いなく薄れてきている。それは、きっと僕だけが感じていることではないはずだ。そして、それは科学の世界だけに起こっていることではないはずだ。それだけ創造することが難しくなってきているのだろうか。
僕たちはもうこれ以上新しいものを創る必要がなくなってきているのか。これは技術の発達を否定しているのではなく、根本思想の創出限界を示している。もちろん、今後も創造の営みは引き続き行われるだろうが、それは一体どれほど社会に衝撃を与えることができるのだろうか。
僕がノーベル賞にあこがれた理由はその衝撃にあった。もしそれが衝撃的でなくなったら、僕にとってその賞の価値は泡のように消えてゆく。僕は僕自身が衝撃を受けてしまうような行動を未来に向かってしていく必要がある。もう自分の躍動感を信じて彷徨い歩き続けるしかないのかもしれない。
2005年07月19日
真実であるかどうか
はたして、真実であることはどれくらい必要なのだろうか。真実を知りたいと願う者に対して、できるだけ客観的事実に基づく知見を提供することは、聞き手の満足度を充足させるという意味で有意義であろう。しかし、このとき、その事実が本当であることに、どのくらい意味があるのかは実は全く評価のしようがないのでないだろうか。すべては聞き手の主観的な満足度によってその情報の価値が決まり、正しいか正しくないかは二の次という程度である。本当であろうが嘘であろうが結局のところどうでもいいのが真実なのかもしれない。
今後、サイエンスメディエーターのような科学的事実を正確に国民に伝えるという仕事を展開していこうと考えている中で、一抹の不安が拭いきれていない理由がここにある。はたして、一般の人々はどれくらい客観的な科学的情報を欲しているのだろうか。現在テレビで放送されているような、なんちゃって科学で満足する人口は結構多いのだろうか。それでは満足できていない潜在的な知の欲求者の存在割合が全く予想できない。それでも自分の理念を押し通して仕事をしていくしかないと思っているが、科学を受け入れる文化的土壌が日本にあるのかと問われる日が怖くして仕方がない。
2005年07月17日
世界遺産
今回、世界の自然遺産として知床半島が選ばれたのだそうだ。日本では、屋久島、白神山地に続いて3番目の選定である。実は、屋久島や白神山地には行ったことがないのだが、知床半島には大学時代に友達といったことがある。車中泊をして北海道の北東部を旅した思い出が色濃く残っている。車内から外を見ているだけでも、野生の動物が至る所に生息しているのが分かって、感動しきりっぱなしであった。さすがに熊には出会わなかったが、鹿の数には驚いた覚えがある。一番思い出深いのはカムイワッカ湯の滝だろうか。滝そのものが温泉で、その滝を登っていくといくつか滝壺が現れる。もちろん、更衣室とかがあるわけではないので、滝つぼに浸りたい場合は水着かなんかを着用して入浴するのが望まれるのだろう。滝壺の中でも下流の方は女性がいたりして、さすがに裸で入浴するわけにはいかず、ひたすら上へ上へと駆け上がっていった。上流になればなるほど滝の傾斜は鋭くなって恐怖感を覚えずにはいられなかったが、最終的には一番上の滝つぼにまで行きつくことができた。そこまで来ると、周りには男性しかいなく、みんな裸で滝壺に浸っていたので、僕も気兼ねなく、その温泉を満喫することができたのだ。水着で風呂に入るなんて自分の性に合わないし、そもそも水着など用意していないわけだから…。観光地として有名になっているところかもしれないが、自然の雄大さを身をもって感じるには最高の土地柄である。もうこんな旅の仕方はできないかもしれないが、もう一度知床半島に行ってみたいと人並みながらに思うのであった。
2005年07月16日
お盆
お盆だから帰ってこいという理由で今日実家に帰ったのだが、そう言った当の本人は結局仕事が夜勤で家にいなかった。で、伝言はインターネットが使えなくなったので、直してくれということらしい。本当にウチの父親はわがままなんじゃないかと思う。
家族というものはいいものだ。何も特別なことを話すわけでもなく、世間話しかしないけれども、こうやってみんな元気なんだから、それで十分なのである。父からは電話がかかってきたが、家に帰ってきていることだけを聞いて、それで終わり。僕自身とは直接話もしなかった。だたの照れ屋なのかどうか子供にはどうにも判断がつかないけど、きっとそれも家族なんだろうな。実家というのは、和むところであると同時に、恥ずかしい気持ちに襲われるところでもあって、その関係性は一言で表現することもできない。それを家族という言葉で綴ってみることしか僕にはできないのだった。
2005年07月15日
サマリー提出
なんとかビジネスサマリーを書き上げて大学に提出することができた。最後は友達の書いた文面と突き合わせて一つのものにしなくてならなかったで、負担は掛かったが良いものになったんではないだろう。自分ひとりで何でもやっちゃえば、それでいいのかもしれないけど、やはり話し合いをした方が普通はいいものが出てくる。このくらいのストレスなら喜ばしいことなのかもしれない。
それにしても、人間は感動主義だと痛感する。感動を与えてくれる対象を素晴らしいと思う生物なのだ。感動に種類はない、だから興味の対象も無差別的である。どんな分野でも、良いものは良いし、つまらないものはつまらないのである。科学も例外に漏れず、感動できるものがある。せめて、その面白い部分だけでも、身近に感じられるような社会環境を作っていきたいと思う。
2005年07月13日
ビジネスサマリー第2弾
アントレ道場のビジネスサマリー提出が今週末に迫っていることもあり、回りの人たちの様子もドタバタした感じを否めない。メーリングリストのやりとりを見ていると、そんなに活気が溢れているわけではないから、落ち着いている人は多いと推察されるけれども、一方でなんとかチームを編成しようと躍起になっている人もいるようである。結局僕は同じ研究室の人とプランを進めていくことになりそうだ。サマリーをまったく新しいものに書き換えての挑戦なので、PRができなかったのが残念だが、時間もないのでひとまずこの案で行くことにした。内容としてはこのホームページでやっていることに近くなっていてサイエンスに関することだ。
投稿者 はるお : 05:27 | コメント (109)
2005年07月12日
normal science
機能生物学セミナーが毎月一回うちの研究棟で開かれるのが、今月は薬学部の池谷裕二先生が帰朝報告(?)をした。コロンビア大学のYuste研究室で行っていた仕事を数理的な神経モデルの検証も交えて1時間半で発表したのだ。前半は昨年のサイエンス誌に発表した内容で、脳の自発発火のパターンが短期間で繰り返されることがあることを明示していた。同じパターンが何度も出てくることはないが、比較的短時間の間で同様なパターンを見つけることができたため、楽譜になぞらえて、それを cortical song と名付けたらいい。後半は、古典的な学習理論やネットワーク理論を適用して、大脳皮質の神経細胞においても、ヘブの学習則が成り立ち、small world network が形成されていることを示していた。これもそのうち論文で発表する内容だろう。
そう、これが normal science なのである。今の科学者ができることはこれが精一杯、既存の確立したルールの検証を続けていくことが現代科学者の仕事というより他ないのだ。normal science が重要であることは百も承知である。しかし、人間が人間であるからには、革命を求めてしまう好奇心が心底で働くのだ。彼がやっていることは一流の仕事と呼ばれるものだろう。しかし、頭が良すぎるが上に、常軌を逸した観念を提示することはできないようにも見える。科学革命を起こしてくれる人材が出てこないだろうか、せめて僕が生きている間にそんな人と接触してみたいと思う。
2005年07月11日
発展させること
ウチの研究室に新しく中国人の技術補佐員の方が加わったので、歓迎会という名の飲み会を開くことになった。その場で同期の友達と製薬会社の内部事情についての話が盛り上がり、一種の社会的矛盾を感じるに至った。普段僕らがやっているサイエンスは真実を限りなく客観的に追究しようと、厳密に論理を組み上げて研究を発展させていく。どうなっているのかが知りたいという知的欲求が仕事の根源であるから、現代科学の規範で正しいものを追い求める作業を僕らは続けているのである。しかし、営利的な企業では真実を知ることが必ずしも重要でないことがあるようなのである。
製薬会社では、新しい薬を作ることがそこの研究員の仕事であり、使命であろう。薬の開発に全力を注いでいるわけだが、薬というものはそう簡単にできるものではない。プロジェクトの9割以上はうまくいかず、途中で開発が頓挫することが日常茶飯事である。もし新しい薬の開発に成功すれば、その開発者の昇進は約束されるだろう。しかし、薬の開発に成功することなど奇跡的な確率であるから、一般的な研究員は常に繰り返される失敗と戦っている。問題は、新しい薬ができないのに、研究員の能力をどのように評価していいのか難しい側面があることだ。新しい薬が創れなくとも、社員は評価の対象となり、それに従い出世していく。その社員に対する評価は新薬の開発段階でどのステージまで化合物を進めることができたかで決まるようなのである。
最終的に薬にならなくても、研究試験のステージが上がれば評価の対象となり、出世の道が開かれる。ここに製薬会社の中に広がる矛盾が浮き彫りにされるということだけ記しておこう。
2005年07月10日
ジャンル
文学にはいろいろとジャンルがあるけれど、僕はファンタジーやホラーが苦手分野になっているかもしれない。これらの分野は普段の生活では立ち表れない人間の想像力を掻き立てる、まさにフィクション中のフィクションなのだがどうもその感覚が掴めなくなっているのである。それは僕の想像力がそもそもそんなに豊かではない可能性もあるが、今はそのような非現実的なイマジネーションが沸きにくくなっているかもしれない。本来、楽しいことに夢を膨らませて現実を離れることは難しいことではない。昔はテレビゲームとかでドラクエとかをやりまくっていた人間だから、ファンタジーの世界にのめりこむことは容易なはずなのである。しかし、最近はそれを無意識に拒絶するようになってきているのか。たぶん、大学に入ってから積極的にファンタジーを拒絶してきた時間が僕の性質を変えてしまったのかもしれない。高校生までは、マンガも読みふけり、ゲームもやりまくっていた典型的な現代っ子だった。そのせいで目が悪くなってきたことも否めない。しかし、大学に入ってから意識的にそれらのものを完全に避けるようになっていた。友達と話したり、どこかへ出かけたりする時間が増え、そういう時間が自然と減ったことも理由の一つではある。でも、真の理由は、マンガやゲームには人を夢中にさせてしまう魔力があって、ゲームをやりだしたら、昔と同じように”はまって”しまって前の自分に戻ってしまうのではないかという恐怖を感じていたからなのだ。僕は大学時代になって初めて自分から積極的に自然に触れるようになった。人との付き合いもそんなに得意な方ではないが、自分なりに努力してきたと思う。そんな新しい自分を失いたくなかったから、必死になって自分のこれまでの世界を閉ざしていったのかもしれない。現実をしっかり見つめることができるようになった自分にある程度自信はついた。しかし、その一方、自分の世界を無限に広げる想像力という能力が低下してしまった気がしてならない。これ以上の能力低下は創造力をも削いでしまう危険性をはらんでいる。忙しさにかまけて、フィクションを避け続けるのは致命的だ。しばらくしたら、必ずフィクションを楽しむ時間を増やそうと誓ったのである。
投稿者 はるお : 02:54 | コメント (119)
2005年07月08日
プランの進化
産学連携本部の各務教授と1時間半ほど話して東大の現状が見えてきた。僕が考えたプランは大学に任せよう。大学の動きがどのくらい機敏であるのかどうかは疑わしいが、大学が自発的にやらなければいけないことは自明である。ゆっくりでもいいから着実に知の公開を発展させてほしい。そして、そんな話を彼としている中、新しいビジネスプランが浮上してきた。より具体的に案を練り直し、もう一度ビジネスサマリーを書き上げたいと考えている。こっちの方がやりがいがあるかもしれない。
今日から竹内さんの講義は「宇宙論」の話に。宇宙ができてから38万年は電磁波(光)を使って内部状態を測定することはできないらしい。重力波が捕らえることができれば魅力的だけど、一体その検出技術に人類は到達できるのだろうか。終了後の飲み会のときに、自分のビジネスプランを話してみると、いたって高い評価をしてくれてかなり嬉しかった。応援してくれる人がいると、頑張りがいがあるものだ
2005年07月07日
文章倶楽部
日曜日に竹内夫婦主催の文章倶楽部があるのですが、そのお題として、一つ文章を提出していた。今日、奥さんの方から提出された方々の文章をまとめて送ってこられたので、一通り目を通す。なんか自分で書いた文章というのは恥ずかしく、自信がないのもあいまって、読みたいとあまり思わない。そんな文章を読んで皆さんはどう思うのか日曜日に分かってしまうのだから、今から恐ろしさのようなものを感じて、震えてしまう。自意識過剰にならずとも自分自身が何かしらの評価の対象になるときは心細くてならない。そのような感覚とは一生付き合わなくてはならないのだろうか。少なくても僕は恐怖の感覚になれる予感がまったくしないのである。
今日は七夕だったんですね。人はなぜ幸せになることを願ってしまうのでしょうか…。
2005年07月06日
ビジネスプランのプレゼン会
産学連携プラザで行われたビジネスプランプレゼン会において、自分のビジネスプランをPRしてきた。当初、一緒にプロジェクトを推進するメンバーを集めることを主目的としていたが、前の人のプレゼンを聴いてその目的をやめた。厳密に言うと、やめたというより、プレゼンを行う第一の目的を変更したということなのだが、結果的に人が寄ってくる分にはいいと考えていた。今日のプレゼンの目的は、僕のビジネスコンテンツの提案に対して、多方面からの意見を伺うこと。実現可能性などを踏まえて、聞き手の感触を率直に受け入れようと思った。今日の発表に対する手ごたえはまずまず、肯定的に考えてくれている人たちが多く、いくつかの声援もいただけた。…が、このあと思わぬ落とし穴があったのだ。会の最後に産学連携本部の事業化推進部長(教授)と個人的にいろいろ話をし、ハッキリとは言わなかったが、東大内で同じようなプロジェクトが動いているらしいのだ。彼にはもう一度メールをしてとことんまで話を問い詰めてみたいと思っている。
2005年07月05日
レセプション
この頃文章書いたり読んだりしているためか、日記がおろそかになっている。そんななか、東北大時代のマンドリン部から40周年レセプションの案内が来たりして、アンケートを書かなくてはいけなかったり…。ちょっと待ってください、今週中にはお返事します。でも、質問の内容が当時の雰囲気を教えてくれというものなので、何を書けばいいのかあまりピンときていない。いまの部と何が同じで何が違うか分からないのよ、まだあまり変わらないのではないかと思う。結局は、「今日も一気、明日も一気、ハイハイハイ…」の一言に集約されてしまう気がするんですが…。あのビールを飲むときの掛け声が大学時代の全てだったと言っても過言ではないな、いやホントに。
投稿者 はるお : 03:17 | コメント (106)
2005年07月03日
ビジネスサマリー
アントレプレナー道場で発表するビジネスプランを考えた。今週PR会があって、自分のプランに賛同してくれるメンバーを募る予定。以下、少しだけ内容を暴露しちゃいます。
東京大学は日本一ともいえる教育コンテンツを有しており、これまでも多くの学生や聴講者がその価値を享受してきている。しかし、このような質の高い教育を間近で体現できる受講生は、本学の学生か、公開講座に応募されて直接足を運ばれた方に限られている。生涯学習や教育問題が社会的に大きく取りざたされている現代において、多くの国民に大学で育まれた「知」を還元することは、もっとも国の利益や発展につながることである。大学が保有する知的コンテンツを、動画という分かりやすい形で頒布し、有料会員制という形式で著作としての権利を保護し、その経済的利益を大学側に還付することで、最も効果的に国民の知的好奇心を満足させることが可能となる。真の知的財産は国民の知性を豊かにすることであると私は考える。
投稿者 はるお : 05:32 | コメント (109)
2005年07月01日
プランのプレゼン
アントレプレナー道場からメールが届いた。来週の月曜日から水曜日までの間に、ビジネスプランのプレゼンテーションを皆の前で行える機会を提供してくれるという旨であった。いまのところ、5件しかエントリーしていないので、アイデア自体が量的に乏しいことも窺える。この発表会を聞いて仲間を募ることもできるので、僕もこの場で発表することを考慮にいれていて、今簡単なプレゼン資料を作成している。これができたら、水曜日にでもプレゼンを行うことができるかどうか本部に問い合わせてみるつもりだ。どのくらいの人が聞きにくるのかは見当がつかない。というのも、道場に参加している人たちだけでのメーリングリストや掲示板が学生たちによって作られているのだが、どうもどちらも活気がないのだ。投稿しようと思えるような動機も特にない。不特定多数にメッセージを送ることに対する効果は難しいものがあるのだろう。やはり、戦略というのは人の心理もよく掴んでから実行しないと空転の極みになってしまう。飲み会をやろうと企画が提案されてきているようだが、これに対する反応も鈍く、集まりも実現できるかどうか怪しい。政治家が非公式に個人を攻める工作というのは、きっとこういう時に活きてくるのだろう。僕自身はあまり駆け引きをしたいとは思わないので、勝負どころを見極めて、一発で決めてみようと思います。最初のボトルネックになりそうなのは、プランのプレゼンになると考えていますが、最低限の打開策は無きにしも非ずという感じでしょうか。
投稿者 はるお : 01:53 | コメント (104)