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2005年11月30日

解法ストラテジー

模擬授業の2回目、夕方に新宿へ向かう。自分が行う授業のスタイルって人が見るとどうなのか、実は今のところ冷静に見れていない。もう、頭の中で「次はこれを言って、その次はこれを言って」と考えているせいか、自分を客観視する余裕がほとんどないのだ。これは自分でもかなり致命傷であると感じる。実際に生徒の立場から見ると、頼りない先生に見えてしまうのかもしれない。予備校の授業はテンポやテンションが大切で、ググッと引き込まれる要素がないとダメだ。もう余裕たっぷりに黒板をデザインし、生徒に時間を感じさせないようにしなければいけない。僕はまだまだ修行が必要だと、今回の選考で実感したのだった。

また、授業には授業に出た者にしか得られない付加価値を与えなければいけない。参考書を読んだり、解答を見たらわかってしまうことに重点を置く必要はないのだ。もちろん、受験対策なわけだから、解答の書き方を明示させることは重要なのだが、最も大切なのは、その問題を解くストラテジーだろう。どのように考えれば、その問題を解くことができるのか。その問題を裸にするために必要な考え方とは何なのか。そして、その問題を出題した意図から、問題の本質を見抜けるようにならないといけない。プロになるには何をやるにも厳しい。はたして、僕にGOサインは出るのだろうか、現在結果待ちである。

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2005年11月29日

You are fired!

アメリカの大富豪、Donald Trump 氏をホストに迎えて、16人のアントレプレナーにビジネスバトルをさせる「The Apperentice」のDVDが届いた。アメリカの人気テレビ番組で、今は第4シーズンを放送しているのだが、DVDで手に入るのはまだこの第1シーズンだけである。16人の中から勝ち進んでいった1人だけが、Trump 氏の会社の社員となり、ビックプロジェクトを任される権利を持つ。1話毎に脱落者が1人ずつ出る。そのときの決め台詞が、"You are fired!"である。DVDのパッケージを開けたら、彼の声で"You are fired!"と嚇されて焦った。まさか、こんな仕掛けがあるとは…。

見る時間があまりないので、少しずつ見ていこうと思い、今日は第1話だけ再生してみた。最初は男女8人ずつに分かれて、どちらのチームが一日でレモネードをたくさん売ることができるか、というもの。それぞれ250ドルずつ渡され、レモネードの売り上げを競う。この中で面白いと思うのが、どう戦略を立てていくかという部分だろう。お金を稼ぐために必要な要素を少しずつ垣間見ていける。最初の重要事項は "Location" だった。一方、Trump 氏が保有する豪勢なアパートに泊まることができ、挑戦者が狂ったように喜んでいる様には興ざめした。豪華すぎる装飾品はどうでもいい、そんな下品な物は見たくないのだ。

このDVDを購入した目的は英語学習が主なのだが、作品そのものもかなり楽しめるのじゃないかと期待している。大富豪になることを American Dream と一言で括っている考え方にはどうも馴染めないが、この作品を通して身に付けられるスキルがあればいい。これの日本語版が出ないのは何かビジネス上の戦略なのだろうか、その疑問は残る。

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2005年11月28日

一人カラオケ

なんか歌を歌いたい。単純にストレスを発散させたいからという安易なものではなさそうだ。本当はまた楽器が弾きたくなってきたというのが正直なところだろうか。今は積極的に楽器を弾ける時間も能力もなく、自分が能動体となって音を奏でることができない。大学生のときにマンドリンをやっていたが、その時楽器を購入したわけではないので、自宅には音を発生させる機械が全くないのだ。もし、何か楽器を買うなら何だろう、マンドリンを弾きこなせるだろうか。それとも、ギターとかピアノとかもう少しポピュラーなものにしようかとも考えた。でも最終的には相当真剣に練習しない限り、どれもものにならないだろう。それならいっそ歌でも歌うのがいいのではないかという結論に至ったわけだ。

早速歌を歌おうと思ってもウチで大声を出すわけにはいかない。じゃあどうするか、そりゃあカラオケボックスに行くしかないでしょう、っということで、一人で近くのカラオケ館に足を運んでみた。よくよく考えるとあまりレパートリーはないのだが、最近お気に入りの木村カエラを熱唱。とりあえずシングル曲は全て歌った、たぶん1オクターブ低いんだけど…。残りは思いつくがまま、知っている曲を入力し続け、1時間歌いきった。一人で歌い続けるとあっという間に喉が嗄れる、久しぶりに運動したときの疲労感もある。でも、結構すがすがしい気分になれていいかもしれない。人目も気にすることないし、純粋に歌を歌うことを楽しめた。一人カラオケ、結構ハマってしまうかもしれない。

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2005年11月27日

副産物という遺産

今、手元に旺文社の国語辞典がある。僕が14年前、東大和の中学校を卒業したときに、学校(正確には市の教育委員会)から貰ったものだ。三島由紀夫の簡単な特集をテレビで見ていたら、彼は幼少期に辞書を愛読していたという。そうか、あの幻想的な旋律は豊かな表現を確かな語彙力で紡いでいたんだ。彼は辞書的に定義された明確な意味を持つ日本語を幼少時代に確固と獲得していたわけだ。そこから、生まれる豊饒な物語、一冊の辞書が無限の思想を創り出す最たる例と言えよう。

そう考えると、辞書や百科事典をつくる目的も明確である。辞書は新たな知を生み出すためにつくるものなのだ。以前、学術統合化プロジェクトの話をしたが、そこでも述べたように、生命科学の百科事典をつくるなら、その目的は新たな生命概念の創出を叫ばなければならない。しかし、現実はどうだ、細分化された分野間の連携を最大の目標としている。それは目的意識が低いとか、本質を見失っているのではないかという懸念の噴出に一役買っている。導入部分では、新しい学問の構築に言及しているのだが、そのために選択した方法論はホントに正しいのだろうか、疑問が残る。パッと見ただけでは、どうしても説明の不足感が残る、論理がどこかで飛躍しないと話を纏めることができないのも事実であるから仕方ないのかもしれないが、もう少し踏み込んだ記述が欲しい。

もちろん、どのような方法論をとったって、目標は達成できないかもしれない。しかし、その目標に向かって全力を尽くすことで生まれる副産物は必ずある。そういう意味では、このプロジェクトを安易に否定することは確かな間違いだ。副産物をどれだけ多くこの世に残していけるか、僕も今考えあぐねている。

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2005年11月26日

時間と空間の逆転

エネルギーとは厄介な概念だ。例えば、運動エネルギーとか、位置エネルギーとか、熱エネルギーとか、電気エネルギーとか。相対論からは質量そのものがエネルギーというパンドラの箱まで開けられた。でも、確かにエネルギーは物理学的に規定されて、相互に変換が可能である。いわゆるエネルギー保存則が成り立つのだ。

ブラックホール周辺の粒子の位置エネルギーをどうなるのか、これがホーキング放射を考える上での山場だった。事象の地平線近くでは、粒子と反粒子が同時に生まれ、そのどちらかが事象の地平線の中に落ち込んでしまう。すると、もう片方は相方を失うから、その粒子は消滅できなくなってしまって、ブラックホールの外に飛び出していく。で、このときの粒子と反粒子のエネルギー状態は、エネルギー保存則から、絶対値が同じプラスとマイナスのエネルギーを持っていることになる。え?エネルギーがマイナス???エネルギーがマイナスの粒子の状態ってどういうことなんだ~。

もうここからは、不思議の世界。なんと事象の地平線を越えると、時間と空間の性質が逆転するのだ。普通の世界では、時間はマイナスにはならない(逆行しない)けど、空間はプラスもマイナス(右にも左にも行ける)もある。しかし、あっちの世界では、時間はプラスにもマイナスにもなるが、空間はプラスしかない。う~、そ、想像できない…。で、エネルギーは運動量の時間性成分と考えるから、向こうの世界では、エネルギーがマイナスになってもいいのだ。む、難しいです…、なんとなく理解したけど、これを人に伝えるのは本当に至難の業だ。竹内さん、今日もお疲れ様でした。

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2005年11月25日

百選といっても

僕が愛して止まない「サクサク」に、絶景選手権という新しいコーナーが生まれた。何でもいいからカメラで撮った絶景写真を紹介するコーナーである。本当に何でもいい、主観的に絶景と感じられるものなら。っということで、以前ここで公開した写真の中から一枚選んで本日投稿してみました。どれを選んだかは秘密、女装写真ではありません。さて、採用されるでしょうか、とても楽しみ。ハンドルネームは昨日の日記から一部拝借して、「落ちぶれてスマン!」にしてみた。

「サクサク」のヴィンちゃんは都下出身ということで、「立川のうた」とか、「国立のうた」とかを精力的に作成し(もちろん神奈川県のうたが一番多い)、番組で公開している。じゃあ、僕も都下出身だし「東大和のうた」を作ってもらえるようリクエストしてみようかと本気で考えている。ほら、一応、東大和のシンボルとして多摩湖があるし、小川範子の出身地だし、ネタ的には何とかなるのではないか。で、その多摩湖が「ダム湖百選」に選ばれていた。しかし、よ~く見てみると、百選といいつつ65個しかないので、日本のほとんどのダム湖は選ばれたように思う。あんまりうれしくない。

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2005年11月24日

背中が寒い

そういえば、科学者ってどんなに偉大な発見をしても、そうそう儲からない。曲や本なら大ヒットすれば、それなりに印税が入ってきて、生活に潤いが生まれるのに、科学者の場合は名誉しか得られない。科学的な発見は法律的に権力の保護に値しないというわけだ。自然現象に著作権など付与できるはずもない(知財の話はここではカット)。研究者の著作といえば、論文が主であるが、そこから利益が配分されるなんて話も聞いたことがない。

そしたら、本の一つも書きたくなるだろう。もちろん、一般読者を対象とした売れる本を。それは科学者として間違った選択とは思えない。多くの人に研究の面白さを伝えることもできるだろう。しかし、それを批判する人が多くいるらしいのだ。研究者は研究する時間を割いて他のことをするべきではないとか、下手な啓蒙書は一般市民に害だとかいう筋だ。はっきりいって、そんなの知ったことじゃない。研究者だって好きなことをやりたいわけだし、奉仕活動をしているわけではない。また、おかしい著書などそもそも売れないから、そんな心配する必要なんてないのではないか。もちろん、どの科学書がいいかという判別は難しいけれども(だから、起業案で書評システムを考えた)、それなりにいい本は評判もまずまずである。

研究者は公の奉仕者ではなく、知の探求者である。そうじゃなくては良質なものなど生まれやしない。税金を使って仕事をしているからといって、目先の結果だけに期待されては仕事が進まないのだ。役に立たないなら貧乏をしてろというのが世論なのだろうか。そのくせ研究者をエリートのような扱いにして祀りたてる。まさしく、研究者は現代の「びんぼっちゃま」状態である。

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2005年11月23日

科学との接触

ブログ(Movable Type)のバージョンを3.2に上げた。そのために生じた問題にぶつかった方がいましたら、申し訳なかったです。ブログ自体の見た目には全然影響出てないはずなのだが、編集する方は少し楽になったのだ。特に文章を書くスペースが見やすくなって、とても目に優しい。

今日は気持ち的に少し沈んでいる。科学の魅力を伝えるには、やはり素晴らしい科学者が出てくること以外ないのではないか。逆に言えば、今の時代に魅力的な科学者はいないということである。科学は人を熱狂的な虜にしづらい分野なのだろう。それはそれでいいと思う、いわゆる客観性を重要視しているわけだし。アインシュタインのような世界観を変えてしまうような発見はいまや少ない。科学の発見が一般市民の心を動かすことは、相当な事件である。

歌手は歌が好きだから歌っている、画家は絵が好きだから描いている、作家は文章を書くのが好きだから本を書いている、野球選手は野球が好きだから野球をしている。そして、科学者も研究が好きだから科学をしている、それでいいはずだ。そのひたむきな姿勢に人は感動する。人を無理に感動させようとしたって、到底無理なわけだ。懇親の力を込めた作品群を見ることで、いろんな人がいろんな想いを掻き立てられ、それぞれの感情を芽生えさせる。それを強制することはできないのだ。

たぶん科学に足りないのは、人との「接触量」だ。音楽や本は道端に溢れかえっているのに、科学と接っする機会はその何十分の一だろう。本当は身近なものなのに、多くの人は素通りしてしまうものなのである。僕にできることがあるとしたら、その「接触量」を増やすことだ。どんな些細なものでもいい、その「接触量」を増やせる媒体の数を増やしていければいいと思う。

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2005年11月22日

起動しないのも糧

自宅のデスクトップパソコンが起動しなくなった。起動時の Windows のロゴが出るところまでは動くのだが、その後はパッタリ。Windows のマークをずっと見せられても面白くないどころか、不愉快である。とりあえず、セーフモードで起動して、システムを修復中。直るのだろうか、時間だけ食われるのがパソコンの嫌なところだ。

この自宅のパソコン、実は修士1年のときに自作したものだ。だから、やたら図体はでかいくせに、中身は5年前のものである。確かCPUはPentium Ⅲの800MHzだった気がする。作った当時はもちろん速いほうだった。臨床薬学教室に出向していたときに仲良くなった医学部の学生がパソコン好きで、いろいろアドバイスを貰って組み立てた覚えがある。研究の方はてんでダメだったけど、Windows の事はこのとき集中して学んで、Macintosh しか分からなかった人間が両刀使いになった。出向して嫌なことも多かったけど、また別の視点で多くのことを学んだ1年だった。

結局何をしても自分にとっては新しい経験になっている。今もそう、嫌なこともあるけど、全てが自分の糧になる。きっと、これからもそうであろう。人生に飽きたら終わりだ、今のところ事件が多くて飽きる時間がないから、充実していると言っていいのかもしれない。良いことも悪いことも生きているから味わえる。毎日のように、何か巨大なものに突き動かさせて、振り子が暴れたような生活を送っているが、その振幅が大きくなればなるほど、豊かな人生を送っていることになるのだろう。それを「楽しい」ということにしよう。

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2005年11月20日

新宿三越ALCOTT

休みになるとなぜか新宿へ足が向かう。自宅から地下鉄で約30分の時間をかけ、また人ごみの中へ立ち入るのだ。新宿三丁目の西側の改札を出ると、目の前には三越ALCOTTの入り口がある。僕は思考を伴わずに、吸い込まれるがままに、その扉をくぐった。

4F~6FはLOFTと呼ばれる雑貨屋だった。エスカレーターを降りると、正面には1ヶ月も早いクリスマスの飾りが彩られていた。陽気な気分と空しい気分が入り乱れる。ふと、クリスマスの飾りを一つ手に取ってみる。それは高さが10cmもないクリスマスツリーの模型で、小さなサンタが中央で星を掲げている。ケースごとにサンタの表情が違っているので、お気に入りを探し始めてしまい、ついにはそれを買ってしまった。なんか、こういう慎ましい飾りは好きなのだ。

東急ハンズに行くことは多かったが、LOFTもなかなか良い。売っているものは大して違わないんだろうけれど…、それでも見た目だけで十分楽しくなれる。ほんとに多種多様な雑貨が目白押しである。

それでも、ぐるっと見渡してみると、ある共通点があることに気付く。そう、みんな、なごみ系の商品なのである。癒しというキーワードを掲げたリラックスグッツだらけなのだ。多くの人が戦いに疲れ、癒されたい気持ちで支配されているかのようだ。現代の安全地帯は東急ハンズやLOFTになっているのでないかと錯覚するほどだ。それだけに商品の多様性も糸目の付け所がない。もう、何を選んだら良いのかその判断は完全に感覚に委ねられるだろう。

見た目じゃ何が良い商品なのかまったくわからない。でもこれだけ種類があるのだから、それなりに購入者がいて消費されていくのだろう。でも、商品の顔だけではなく、その中身もきちんと味わいたいものだ。でも自分で全部試していたら、あっという間に人生が終わってしまう。インターネットで検索すれば、少しは機能的な情報があるのだろうけれど…。

科学も顔だけじゃなく、中身も知ってもらいたい。そもそも科学の場合は顔もあまり表立っていない気がするが…。まずは、科学を陳列しなければならない、次に、そこに客が入らなければならない。そして、その商品を説明してくれる人がいなければならない、しかも分かりやすく。科学をLOFT化する方法を本気で考えている。

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2005年11月19日

科学の経済原理

科学本が売れない理由は何なのか。言葉にトゲをつけて言えば、それは科学を必要なものだと思っていないからである。もちろん、どのような人でも、長期的に未来の発展を考えたら、科学の重要性を認識しているはずだ。が、しかし、現段階で科学なんかよりもっと必要で重要なものがあるのが実情なわけだ。

それの筆頭が、「お金」であろう。いまやお金で交換できないものは数少ない。お金さえあれば、自分の思い通りの生活が送れるかもしれないし、それが幸せに一番近づける方法だと多くの人は信じる。そうでなければ、書店であれだけビジネス書が展開している理由がつかないではないか。お金を儲けることが人生の目的、そういう風に考えている人が多いのかもしれない。そこまでいかなくても、まずはお金を稼いで、その後はそれから考えても遅くはない、ということである。お金が嫌いな人はほとんどいないわけだ、みんなお金が欲しくて欲しくて仕方がない。

次に「恋人」、人間に男と女しかいない以上、この問題も大きな欲求となる。恋人がほしい、結婚したい、という願望も多くの人が抱いているのである。街中には出会い系サイトや結婚紹介所の宣伝が溢れかえっている。生物学的にも、これは人間の性(さが)であるから、このような類の商売は人間が反映している以上なくならないのかもしれない。

うちの教授の名言の一つとして、「いい生理学者になるためには、結婚することだ。」というものがある。いろんな解釈ができるが、この言葉が性的欲求を満たすことの重要性を説いているのもまた事実である(もちろん、他にも精神的安らぎや協力的な支援なども大きい)。

ということで、更なる知的欲求が発生するためには、「お金」と「異性」に満足している必要がある。それが科学の経済を考えたときのスタート地点のように思われる。しかし、この世の多くの人は、この両方を満足するのに時間や手間が膨大にかかる。これらを手に入れるだけで疲れてしまうわけだから、現実的に科学の事を知ろうと思うのはよっぽどの気違いじゃないと起こりえないわけだ。

そこで登場するのが「娯楽」である。娯楽は今の生活にはならない必需品だ。日常のストレスを解消するために、お笑いを見たり、音楽を聴いたり、本を読んだり、映画を見たり、旅行をしたり、スポーツをしたりする。じゃあ、科学は娯楽にならないのでしょうか?今のところなっていません、と僕は思う。そこに昨日の記事と関連した想いが立ち上がってくるのである。科学をいかにエンターテイメントとして確立できるか、勝負所である。

ちなみに、僕は現在、上記の両方に満足がいっている状態とはいえないが、自分の思考を実現化していくことで満たされるだろうと信じて行動している。

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2005年11月18日

サイエンスパラエティー

科学をネタに笑っちゃおうっていう発想は実現不可能なのか?今はいわゆる(第3次)お笑いブームらしいので、どの放送局もバラエティー番組が目白押しだ。新人の芸人さんも星の数ほどいて、もう誰が誰だかほとんどわからなくなっているが、深夜番組をちらほら見てなんとなく知識を補充している。くだらない番組も多いが、これだけバラエティー全盛なら、なんとか科学ネタを仕込んだ番組は成り立たないものなのだろうか。

そもそも科学をネタに笑ってしまおうという発想がない。相対性理論を基にコントや漫才を作っても、相対性理論が大体どんなものなのか理解してないとその面白さが伝わらない。サイエンスユーモアを含んだギャグを飛ばしても、苦笑いする人が数%しかいないのでは、お笑いは成立しないだろう。科学を笑い飛ばすには、それなりに科学を知っていなければならないわけだ。しかし、現在これが一つのエンターテイメントとして確立する土台すら、この日本には存在しないじゃないか。

そんな中、政府の連中と来たら、日本の未来は「科学技術」の発展にかかっているとかとおっしゃる。日本の科学技術は国外から輸入するのでしょうか。もう科学を教えるのに手段を選んでいる時間はないのではないか。今後まじめに学校で科学を教えても、現状を短期間で打破することはできないような気がするのだ(そもそも教育改革も起きていないけど…)。

僕はここに一つの提案をします。「サイエンスバラエティー、サイエンスユーモア、サイエンスコメディ」という分野を日本に開拓しよう。科学なんて笑い飛ばしてやれ!しょうもない研究も山ほどあるぜ!お偉い先生方にビビっていないで、ユーモア精神で科学を感動に変換しようじゃないか!科学は分かりにくいから、笑いに変えてしまえ。それが科学的知識を向上させる手段の一つになる日が来ることを願って止まない。っていうより、僕の今後の活動課題だな、これは。

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2005年11月17日

噛み合わない

自転車が壊れていく。今僕が乗っている自転車は近くのホームセンターで15,000円くらいで買った3段シティサイクルだ。買って2年くらいしか経っていないが、いろんなところに不都合が生じてきた。まずはスタンド、他の自転車と同じように、向かって左側に片足スタンドが付いている。これが最近ぶらついていて、走行中に下がってきては地面を擦りだす。10分に1回くらいの割合で、左足を後方に蹴りだし、スタンドを元に戻しているのではないか。そして、今日は帰宅際にチェーンが外れた。最近ミシミシいうなとは思っていたが、まさかこんな深夜に外れるとは。その後はサドルを降りずに、地面を両足で蹴ってウチまで帰ってきた(ケッタの語源が分かった気がする)。自転車の手入れなど本気でしているわけではないからな、仕方のないことかもしれない。明日は午前中に自転車屋に行ってもろもろ点検してもらおう。美容室も予約してあるしちょうどいいや。

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2005年11月16日

オペレーティング・システム

僕らのような大人になってから英語の学習を始めた者にとって、英語と日本語のバイリンガルになるということは、脳内に言語用のOSを2つ持つことだと考えてもいい。一台のコンピューターにOSを2つ入れることはあまりしないが、まれにデュアルブートできるようにしてあるパソコンがある。それでも、Windows と Macintosh という相性の悪い組み合わせはほとんどないだろう。しかし、その稀有な状態が英日のバイリンガルなのではないかと感じる。

コンピューターの場合、片方のOSが動いているときは、もう片方のシステムは動いていない。もちろん、データとして情報をもう片方のディスクから取り出すことはできるが、OSとしての機能はブートした方のディスクが提供するのである。両方のOSが同時にアクティブになることは決してない。

僕たちは、日本語というOSの上に英語のOSを走らせようとしている。それは決して良い方法とは思えない。これは、Windows の上で Macintosh をエミュレート(模倣)するのに似ている。エミュレーターを使ったことがある人なら分かると思うが、エミュレーターは完全に Mac の動作を模倣することはできない。起動できないアプリケーションもあるし、互換性がない機能も多い。つまり、エミュレーターの限界と同じような壁が、僕らの英語学習には訪れているのだ。

脳の容量がどのくらいあるはわからないが、もしその容量が無限にあると考えるなら、英語用のディスクスペースを新たに構築するべきだ。ここには英語で組み立てられたプログラムが広がっており、日本語は全く介入しない。他の領域との接点を作るならば、僕たちが蓄えてきたイメージ画像と直結できるように配線するべきなのである。

バイリンガルの研究で面白い結果がある。幼少の頃から英語と日本語を両方とも自然に身につけた人は、言語を理解するのに働く脳内部位が分離していない。比喩的に言うなら、1つのOSで2つの言語を理解していることになる。一方、大人になってから、学習によってバイリンガルになった人は、言葉によって活動する脳内位置が異なるのだ。

僕らは1つのOSで2つ以上の言葉を獲得することはできない年齢に達している。時間がかかるかもしれないが、じっくり手間隙をかけて、もうひとつのOSを確立していくしかないのだ。しかも最も相性の悪いOS同士を一台のパソコンにインストールしなければいけないのだから、並大抵の努力では実現しないだろう。道は険しい、それでもやるしかないのだ。

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2005年11月15日

知性の限界

人間はこの世界で起こる現象をどこまで理解できるのか。自分が存在するという現象は果たして科学的に理解可能なのか。科学に目的を設定するなら、その目的は物事の始まりと終わりを解き明かすことなのかもしれない。素粒子の一生、原子の一生、分子の一生、細胞の一生、臓器の一生、個体の一生、地球の一生、太陽系の一生、銀河の一生、そして宇宙の一生…。全ては、どのように始めり、どのように終わっていくのか、その過程を含めた一生の遍歴が自然科学の言葉で記述される日は来るのだろうか。

今の科学は目先のことばかり考えている。何かが分かればそれだけでいいのか、何かが役に立てばそれだけでいいのか、何かが便利になればそれだけいいのか…。いや、それらは全て科学の副産物だ。そう、今の科学は副産物を目的として営まれているにすぎない。そもそも問うべき命題が掏(す)り替わっているのが現代科学の問題なのだ。

これまでの科学の発展を覆す必要もないし、そのような副産物を望む人もいる。僕らはその副産物を利用して豊かな生活を送っていると考えられるからだ。しかし、このような命題設定は人間の知的好奇心を満足させるものではない。人間が誰でも求める知の命題は、「自分がどこから来て、どこへ行くのか。自分は一体何者なのか」ということであろう。この命題は哲学を生み、多くの派生した学問を作り出した。

この知の命題を解き明かそうと一生考え続ける人がいる。ある人は音楽をつくったり、ある人は絵を描いたり、ある人は彫刻を掘ったり、ある人は小説を書いたり、ある人は演劇をしたり、ある人は映画を作ったり、ある人はスポーツをしたり、そして…ある人は科学をする。自己の表現方法は様々であるが、物事を深くまで考えれば必ずこの知の命題に行き着く。そして、その命題に対する十分な答えが得られないまま死んでいくのである。

それは知性の限界により、答えられないものなのかもしれない。しかし、その答えが出ないかもしれないことに向かって全身全霊を投入することが、文化的なコンテキストの中で生きるということなのだ。僕は、その知の命題を解き明かす手段の一つとして科学を選んだ。科学を選んだ以上、科学の本質を追求するつもりだ。特に人間を対象とした科学を中心に、生命の一生を考察し続けたいと思う。

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2005年11月14日

さらに追加注文

教授の要求はとどまることを知らない。今日もさらなる追加実験を行うよう指令が出た。自分でも証拠が弱いなと思っていた部分だったから仕方がない。早速必要な試薬を注文して、その到着を待つこととなる。こういうときに限って、納品が遅くなることはよくあるが、もう祈るしか打開策はない…。

一方、論文自体はよく書けていると褒められた。飴と鞭をうまく使い分けている。でも、英語で論文を書くことが初めてではなかったことが大きく影響しているだろう。東北大にいたときにお世話になった荒木勉先生(現・徳島大教授)のおかげだ。彼は国際雑誌の投稿について、どういう過程を踏んで作っていくかを丁寧に教えてくれた。彼の論文の量産体制は目を見張るものがある。今もコンスタントに学生の仕事を論文に纏め上げ、業績という形で結果を残してあげている。企業から戻ってきた先生だったが、とても教育的で、人間味があった。僕の書いた投稿論文を人様に見せることができる論文に育て上げてくれたおかげで、僕は学術論文の書き方を身につけることができたのだ。もちろん、これからも練習しなければ、いい論文にはならない。書けば書くほどうまくなっていくものだろう。しかし、その土台作りに尽力してくれた荒木先生には感謝しきれない。今の研究フィールドに目を向けたのも彼の影響が大きかった。お世話になった時間は短かったが、いまでもメールをやり取りさせてもらえる恩師であることは言うまでもない。いつか徳島に遊びに行きたい。

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2005年11月13日

予防接種

今年もインフルエンザワクチンを接種した。国立感染症研究所の報告によると、今年のインフルエンザ流行株の予想は
 A/ニューカレドニア/20/99 (H1N1)
 A/ニューヨーク/55/2004 (H3N2)
 B/上海/361/2002
とのこと。
いわゆる、Aソ連型がH1N1、A香港型がH3N2に相当する。これらの型はインフルエンザウィルスの表面に突出している赤血球凝縮素 (HA) とノイラミダーゼ (NA) と呼ばれるタンパク質の種類で決まる。A型は亜種が多い(HAが15、NAが9種類)のに比べて、B型はHAとNAがそれぞれ一種類しかないので、多様性はそれほどでもない。つまり、変異が起こりやすいのはA型ということだ。

最近騒がれいる鳥インフルエンザもA型だ。A型は人と動物の共通感染症として捉えられている。変異しやすいA型の鳥インフルエンザ(H5N1)が人に対する強い感染力を獲得する可能性は否定できない(実際の感染はすでに報告されている)。それがゆえに、H5N1のパンデミック(世界的な大流行)の恐怖に各国が慄いている。CNNで "pandemic" という言葉を使わない日はないくらいだ。

インフルエンザの代表的な治療薬は現在2つしかない。リレンザとタミフルだ。とくに唯一の経口剤であるタミフルの需要が急増しており、製造元のロシュ(日本の販売元は中外製薬)は生産体制を強化しているらしい。しかし、これらの薬でも、インフルエンザ発症から48時間以内に服用しないと効果はない。インフルエンザにかかったと思ったらすぐに医療機関に行くことをお勧めします。

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2005年11月12日

模擬授業

予備校の講師の筆記試験を二つの教室(SEGZ会)で無事通過したので、2次試験である模擬授業を行った。聞いているのは学生ではなく、普通の大人だから変にプレッシャーがかかる。無意識に丁寧言葉を使って講義をしてしまった。最初にSEGで20分間の授業もどきを行う。板書をもう少し練習した方がいいらしい、ということで、後日もう一度、模擬授業をやらされる可能性が大だ。板書もプロ級になれば芸術だからな~。そのあと、場所を新宿からお茶の水に移してZ会で講義、こちらは45分間だったが、問題解説の時間が足りなかった。時間配分に失敗、1時間半以上の講義になれていると、こんなことになるのか。想像以上に45分は短い、相当中身を圧縮して情報を伝えなくてはいけないことを再認識した。結果は後日通達が来るが、時間オーバーはかなりの減点になりそう…。とにかく、いざ教壇に立つと周りの見え方が違う、時間の経ち方も違う、それを俯瞰できるようにならないといい講師にはなれないだろう。これからドンドン経験を積んでいきたい!はて、結果はいかに…。

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2005年11月11日

今日の夢

母親が呆けてきた…。夢の中の出来事でホッとしたが、実はそんなに悪い夢ではなかった。

母が外にふら~と出て行ってしまって、車に轢かれそうになった。それを心配して、父がドライブに誘うのだ。もちろん、僕も一緒に行く。僕は家でビデオを見ている妹を誘う。結局、おばあちゃんを一人で家に残すわけにいかないから、家族全員でドライブをするのである。場所はどこでもいい、「多摩湖でも行こうか」みたいなノリだった。夢は全員が車に乗り込んで、少し進んだくらいで終わってしまったけれども…。

実は実家の家族構成は僕が物心ついてから全く変わっていない。つまり、妹が生まれてから、家にはいつもの5人がいたのだ。そして、今もなお、僕以外の4人は実家で元気にしている。家族が5人であることが23年間も続いているなんて、何て幸せなんだろう。そして、家族全員でドライブできる日はあとどれくらいなんだろう。この夢の中で流れていたバック音楽は木村カエラの「happiness!!!」だった。まさに、この夢は僕にとって、この上ない Happiness な瞬間だったのだ。次のお正月も全員元気で迎えたい。

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2005年11月10日

ナス電池

ナス電池と言っても、野菜の"茄子"が電池になるわけではない。本当はNaS電池、正確に書くと、ナトリウム(Na)-硫黄(S)電池のことである。近年話題の2次(充電可能な)電池らしいのだが、僕はたった今知った。ニッカド電池やリチウム電池は身近にあってよく知っているが、エネルギー活用の視点から見て、このNaS電池の有効性は高いらしい。

突然、「NaS電池とは何か」と聞かれ、「へっ!?」だったのだ。化学の中でも無機化学は滅法弱い。正直言うと、高校生の頃から、オストワルト法とかソルベー法とかにあまり興味が無かった。もちろん、これらは産業上の大革命だと思うし、原料の無駄を極端に省いた画期的な生産手法だ。しかし、無機化学だけに、感動も無機質だったのだ。とりあえず、反応を丸暗記しないといけないのが、どうも嫌だった。なぜ、そのような反応が進むのか詳しく教えてもらえなかったのがいけないのではないか(でも、それは指導要領範囲外ですから…)。

で、NaS電池のことをネットを使って少し調べたけれども、腑には落ちていない。さすがに専門書をひも解くほど暇じゃないので、大まかな反応原理の理解程度に留めておかなくてはならない。見た目は簡単な酸化還元反応式だが、その分子構造や電子軌道の問題まで理解しなければ、どうも納得がいかないのでした…。

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2005年11月09日

視点・論点

教授から論文のディスカッション部分の再考を求められた。ここは、論文の核だ、自分の考えを直接表に出すことができる。論文の質は、結果も大切だが、それを基にした十分な洞察が重要視される。同じ結果を見ても、それを捕らえる視点が異なれば、全く違う解釈になりえることがあるのだ。僕が書く論文程度のものでは、それほど異論を呼ぶことは無いのだが、自然観を変えるインパクトを与える記述はこのディスカッションにある。

アインシュタインの特殊相対性理論で使われる等式はローレンツ変換と呼ばれる。なぜ、アインシュタイン方程式と呼ばないのか。そう、この式自体はローレンツがとっくに発見していたわけだ。しかし、ローレンツはエーテル(化学のエーテルとは異なる)が光の媒質として存在すると仮定しており、この式に物理的な意義を見出していなかった。その後、アインシュタインは光速度不変の原理により、ローレンツ変換を導いて、見事にパラダイムシフトを起こしてしまった。これは、視点の位置がどれだけ重要であるかを示す代表例と言ってもいい。

ということで、今は論文書きの頂点に立っている。そんなに高くない頂点だが、この部分をしっかり書き上げて、教授に再提出したいと思っている。多少議論になる可能性があるが、それは研究者として自分の意見を通すことを優先していきたい。

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2005年11月07日

人権侵害?

昨日言っていた写真を一部公開します。でも、これは肖像権の侵害になるのだろうか。というより、写真の内容からして人権の侵害になりそうな気もする…。

写真の公開は期限付きにしよう。これらの写真を見れるのは今日から1週間、11月14日まで。その後はウェブサイト上から削除します。それで許してください、皆様…。

写真のサイズは一枚につき640ピクセル程度に落としたので、そんなに重くは感じないでしょう。では、こちらをクリックして、僕らの過去をお楽しみください。

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2005年11月06日

過去の汚点?

僕が大学生のときに所属していたサークル(東北大学マンドリン楽部)が、今年40周年のレセプションを開催する。僕自身は参加する時間がないのだが、そのレセプションで上映されるスライド作りの手伝いをすることにした。っと、言っても、僕はただ実行委員に元となる写真を提供するだけですが…。

そこで、昔のアルバムを弄(まさぐ)り返していたところ、懐かしい写真が出てくる、出てくる。かなりの感動品ばかりである。こんなバカなこともやったな~などと思い出に耽ってしまう。女装をしたのも、もう10年前か、記憶に色濃く残る過去の汚点の一つである…。

あまりに面白いので、近日中に写真をアップしてみよう。関係者の方々は、かなりの爆笑ものが掲載される予定なので覚悟するように。一方、僕の過去を知らない方は、呆れ返る可能性がありますので、ご注意ください。

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2005年11月05日

人間は人の間と書く

JR新宿駅、日本で最も乗降客の多い駅に降り立つ。数百万人という人間たちが、僕の意思と全く関わりを持たずに、縦横無尽に通路を行き交っている。なぜ、僕はここにいる他人には、なれないのであろう…。

魔物から逃れたい心と魔物を追いたい心、自分の心は多数存在しているように感じるのに、僕という個人は一人だけ。本当に自分は一人なのか。逆に、なぜ、僕の心は分離しないのだろうか。

なぜ僕はここにいるのだ。目的でもあるのか、わからないから、とりあえず近くのモスバーガーにでも入ろう。腰を据えて、ジュースでも飲みながら、外でも観察してみよう。

メイドの格好をした男性がモスの入り口でメニュー看板を見ている。彼の悩みは何だろう。「女性になりたい」、「私の気持ちをわかって」、「何を食べようかな」…、彼を生み出した源泉は、まだ枯渇することを知らない。それが多くの支流を生み出し、無秩序に広がる。けど、僕にその真意は届かない…。彼も僕も一人ぼっちだ。

大勢でいるより一人でいることを好むのに、群衆に飛び込みたくなる。そこで、僕は見えない繋がりに雁字搦めになる。僕は一人ぼっちなのに、繋がりのない他人に拘束される。何があるんだ、僕と僕以外の人の間には何があるのだ。本当に「ある」のか?「ある」という表現は適切なのか?

家にいるときの僕と新宿にいる僕、ただ周りの環境が変わっただけでも、明らかに自分の状態は異なる。そして、その状態は周りの環境を変える。わからない…、一体、人の間を支配しているものは何なんだ…。

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2005年11月04日

人の命は死んで永遠に

生命が最も輝いているときは、いつだろう。もちろん、それは生きているときである、と答えるだろう。死んでしまったら生命の輝きが消えてしまう、普通に考えたら当たり前の帰結だ。こうして、困難に立ち向かいながらも、僕たちは生き生きと毎日活動している。心臓の鼓動をとめることなく、それぞれの目標に向かって、力強く足を踏み出している。たとえそれがどんなに小さくても、生命として立派に生きているのである。

しかし、人間の中には、死んでしまっても未だ輝き続けている人達がいる。そう、僕らの歴史をつくった人たちだ。彼らの成果は多くの人を救い、人類文明の発展を加速させてきた。どんな形であれ、僕らは彼らに感銘し、勇気を与えられ、夢を育まされてきたのだ。まさに、彼らは死んでもなお、多くの人たちを突き動かし、生命活動の発展に寄与しているわけである。

僕は、そんな人間になれるだろうか。いやそんな弱気な態度ではダメだ。そういう人間になろうとしなくてはならない。追い求めるものは、地位や名誉ではない。人類に貢献しようという心構えが重要だ。基礎研究は役に立たないと明言した人がいたが、真理を知ることで、希望を与えることができることもある。十分難しい問題を解く価値はあると言えよう。夢を伝える強い意思を研究者は持ち続けなければいけない。そうなれば、研究者の話を聞いて、多くの市民が感銘を受け、世界観が変わってくるかもしれない。

マザー・テレサは「人の命は死んで永遠に輝く」と言った。彼女の魂は彼女の言葉通り、今も強く輝き続けている。僕は彼女ほど慈悲深くなれないが、たとえ自分が死んでも、後世に受け継がれていくものを残せるような仕事がしたい。人間の起源を科学的に考えいることは心底難しいと思うが、今はそのヒントを探すために生きているのである。そのヒントにこそ、本当の「生きるヒント」が隠されているのかもしれない。

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2005年11月03日

知の統合化プロジェクト

「知の統合化プロジェクト」と聞くと、なんとも響きがいい。僕の目指しているコンセプトを一部言い当てているようにも思える。小宮山総長の「知の構造化」を推進するための一大プロジェクトとして、昨年から工学・情報系を中心に動いているようだ。その中でも特に、人間を対象とした生命科学の知識を体系化しようというねらいがこの「統合化プロジェクト」にある。

しかし、その方法論を見たらなんと思うだろう。現在、新領域研究科の高木教授がリーダーとして、プロジェクトを推進しているようだが、その統合手法は『自然言語のオントロジー』である。オントロジーとは哲学的には「存在論」のこと、工学的には、「体系化された存在に関する記述」を意味する。ようは、概念的な物事を明確な「言葉」を使って「分類・表現」するということである。

オントロジーの原義的な意味も、納得のいかない部分があるが、ここは許容して話を進めよう。確かに科学の最終的な結果を記述するためには「言語」が必要である。ほとんどの自然科学の論文は英語という「自然言語」を用いて記載されている。僕らは、星の数ほどある論文の中から、必要な情報を抽出し、自分の研究活動に応用しているわけである。

科学の研究成果は「自然言語」として論文に発表されているから、それらの論文上にある『自然言語のオントロジー』を構築しよう。簡単に言えば、このような目標を掲げて、「知の統合化プロジェクト」は動いていることになる。でも、これでは、ただの情報整理で終わってしまうのではないかという危惧が消えない。この「プロジェクト」は生命科学百科事典の亜種をつくることが目的なのだろうか。

上記のようなオントロジーが確立すれば、人間が論文を読まなくても、その内容をコンピューターが大方予想できるようになる。「自然言語」の解釈を機械にさせることで、人間による情報の取りこぼしが無くなるかもしれない。しかし、生命の本質を理解するにはあまり有効な手段になるとは思わないのだ。なぜなら、その「知の構造化」は「自然言語」を基にして作られたからだ。

論文は否応無しに「自然言語」で書かれているだけだ。生命の高次機能を明らかにするなら、分子や細胞の構造や位置関係を明確にし、時間によってそれらの活動がどのように変化するかを考慮すべきだ。さらには、生命が「モノ」だけで成り立っているわけは無い。ある性質を持った「場」の影響も記述すべきではないだろうか。そのようなデータを集めてきて初めて、意味のある新しい知識が生まれるんじゃないのか。そうじゃなきゃ、そんな膨大な情報を集める気にはとてもなれない。

知を体系化することに文句は無い。百科事典も役に立つ。しかし、学問を体系化する真の理由を見失ってはいけない。理想的には、知を体系化することで、新しい知が創発され、生命をより深く理解することができるようになることを望んでいるわけだから…。

投稿者 はるお : 03:39 | コメント (75) | トラックバック

2005年11月02日

取り越し苦労

昨日と同じ実験をしたところ、どうも昨日の結果はシュードポジティブ(偽陽性)だったようだ。データがネガティブだという確かな証拠を確認する実験もしたから、たぶん問題ないだろう。これで、提出する論文の整合性が保たれる。一安心だ。

予想外の結果が大発見を生むことは多々ある。というより、ほとんどの大発見は予想外なことが多いのではないか、とくに実験科学の分野においては…。だから、何でもいいからとにかくやってみろという風潮があるのは事実だ。つまり、特に問題意識を明確にせず、解明すべき仮説の設定を軽薄にして、実験だけをただひたすらこなすというスタイルである。

確かに自然は僕らの想像を超えて複雑だ。まずは手を動かして実験をしないと自然は僕らに何も語りかけてくれない。そうじゃなければ、こんなに身体を動かして毎日のように実験はしないだろう。しかし、だからといって、下手な鉄砲数打ちゃ当たる式の研究手法には多くの弊害が付きまとう。やればやるだけ良いというものでは決してないはずだ。最終的にそれで大発見ができればそれでいいというなら、そうすればいいのかもしれない。でも、それで誰がその研究(者)スタイルを慕ってくるのだろうか。

科学は最終的には結果しか評価されない。しかし、僕はその結果を出すまでの過程に最も重点を置きたいし、その部分を楽しみたい。魅力的な仮説の設定を常に意識し、その検証にドキドキする感情を共有できるようになれれば本望に思う。

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2005年11月01日

予想外の展開

実験をしていると、とんでもない事が起こるときがある。自分の想定した仮説を覆し、大きな戸惑いを感じずにはいられないが、事実であるのだから受け止めるしかない。自分の感覚だけが全てではないということが科学をやっているとよく分かる。今日はそんな現実を前にした。

この事実は、博士論文の方向性を変えてしまう可能性がある。そうなったら、その結果を纏めるまで卒業が延びるのは確実だ。僕は自分の中でここでキリをつけようというポイントを決めていて、そこまで仕事が完結したら学術論文にしようと計画していた。予定通りに事が進めば、ギリギリ卒業できるだろうと目論んでいたのだ。この予想外の結果を見たら、教授は僕に何て言ってくるだろう。とりあえず、もう一度実験をして再現性が取れるか確認してみよう。込み入った話にしたくないのだが、自分がその話の道筋を決めることはできない。行く末は天のみぞ知る、覚悟を決めなくてはならぬ。

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