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2005年12月30日
大分の湯
昨日はこじんまりとマンドリンの時の同期(+1年先輩)と忘年会。とにかく時間の過ぎるのが早い!あっという間に宴が終わってしまうので寂しさを覚える。終電があるので、みんなを止めるわけにもいかず、狐につつまれたようにイベントが終了するのである。昔は朝まで飲み明かしていた仲だったのに、時代は移り行くなとしみじみする。彼らと出会ってから、来年で10周年!ということで、夏にはみんなで温泉に行こうと約束(?)した。目指すは大分の湯布院温泉郷。泊りがけなら往年の盛り上がりを少しは再現できるかもしれない。ここしばらく温泉にも行っていないので、いまからかなり楽しみになってきた。プランの計画から手配までノリノリで準備しちゃうだろうな。
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2005年12月29日
「主観」の科学
今日は竹内さんの今年最後の講座、話のネタも睡眠に関することだったので、興味津々。でも、論文をちゃんと読んでいかなかったのは間違えであった。いまだ自分の博士論文の方が忙しく、他分野の論文を読む時間が十分に取れない状態が続いている。脳科学でも行動や心理を扱ったものに関してはは十分に把握していないので、深い議論をするためには、ちゃんと関連した論文を読まなければならない。それをせずに、議論を発展させようと思っても所詮焼き付け刃である。今回の講座の予習をきちんとしていかなかったのは自分として不覚であった。睡眠によって記憶が定着するメカニズムを機会があったらちゃんと調べておこう。記憶の定着と夢との関係もまだ理解が曖昧だ。夢の奇妙さと統合失調症患者が見る幻想との違いも明確に掴んでおかなければいけない。今回の話は非常に心理学的な内容が濃かったが、いかに「主観」を科学するということが心脳問題にどれだけアプローチできるかの鍵になるはずだ。心理学を認知科学としてしっかり昇華させて、現象論のメカニズムまで深く切り込むことができれば、あっと驚く出来事に立ち会えるかもしれない。
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2005年12月28日
感情的知性
今週はサクサクがやっていないので、なんだかつまらない。毎日のように見ていると、刷り込み現象によって親しみが湧いてきて、気付かぬうちに番組の虜になってしまう。少しずつでも毎日やるということの偉大さが垣間見られる。結局は毎日少しずつやることでしか身につかないものがある。英語などの語学学習は代表的なものだろう。だからこそ、毎日できるような楽しいものでなければならないわけだ。サクサクを毎日見て何が身につくのかは分からないが、そういうものを活かして語学の習得に発展させてみよう。木村カエラは英語で詩を書いている曲が少しだけあるので、それを憶えたりしている(というか、彼女の曲は全部覚えてしまった)。感情と結びつけると勉強は格段に捗る。好きなものをたくさん見つけて、多くのことを学び取っていく過程が面白いのだと思う。感情を揺さぶる程度が知性の宝庫を生み出すバロメーターなのだ。
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2005年12月27日
世界の一部
誰も音楽を理解して欲しいという理由で音楽をやっている人はいないと思う。作家や画家だって同じことだ。その作品を理解して欲しいからという理由で創作活動をしているのでない。まさに究極の自己表現であり、その出来上がった形が他人から見ても美しいときに、外部から評価されるだけのことである。もちろん、その評価は一定ではないし、それを鑑賞する個人によって受け取れるメッセージが異なる。その作品を理解できる他者は基本的に存在しないが、他者の数だけ感動が生まれるのも事実である。最終的に音楽理論や絵画理論に置かれるウェイトは、作品の10%もないはずだ。統一的な理解が得られないのは火を見るより明らかというわけだ。だから作者の意図を汲むという行為にはあまり意味がないように思える。
そのわずかなウェイトを占める「理論」の部分に焦点を当てたのが科学ということになる。そう思うと科学で説明できる部分などごくわずかだということだ。科学が発展した理由は、心のよりどころ探しであり、神を見つけるための一手段に過ぎない。いまや、宗教と折り合いが悪くなってきたがために、科学は宗教と切り離されているだけなのだ。科学はいわゆる万人が同じように世界を理解できるような形式を提供しているが、逆にそれを無味乾燥に思う人も多いだろう。当たり前である、科学はこの世界を記述する手段の一つに過ぎないのだから、それを前面に出されても白けてしまうのである。
科学の性質上、理論は理解可能である。が、その理解を強制する必要はない気がする。科学を理解してもらおうと思って必死になって数式を詰め込んだって、その後に何も生まれるものはない。科学に興味があれば自分から進んでその道を歩み出すはずである。街中に音楽が満ち溢れているから、音楽をやる人が生まれる、それが全ての基本だ。音楽の理解を強制しなくても、音楽をやる人が生まれるのと同じように、科学の理解を強制しなくても、科学をやる人が生まれる環境が全てなのだ。そういう意識を持って科学の普及に努めれば、世界の捉え方が大きく変わってくるのではないか。そして、多くの人が少しでも広い視野を得られるようになれば、人間社会そのものの動き方が激変するはずだ。
科学は重要だが、それが全てではない。このスタンスを絶対に忘れてはいけない。
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2005年12月26日
模擬ゲーム
センター試験の模擬試験を受けてみた。とりあえず、英語と数学と化学だけ。もちろん、全く対策などはしていないから、散々な目に遭うだろうということは予想していた。で、その結果は…、英語179点(/200点)、数学121点(/200点)、化学81点(/100点)の計381点(/500点)で、現役時代のスコアより低いというお粗末ぶりだった。化学は予想通り無機化学を間違いまくり、大失点につながってしまった。でも、それどころじゃないのが数学、数列の和の公式すら憶えていないことに問題を解いていて気が付いた。積分も計算を間違え、それ以降の問題が全滅という有り様だ。さすがにここまで問題が解けなくなっているとは正直ショックであった…。受験には受かるコツもあるけど、やはり練習が必要だ。特に数学は時間との戦いであって、解法を一瞬で思いつけるようにしておく稽古が必要だろう。久しぶりにゲームをした感覚で面白い体験ができた模試であった。実は頭の体操にセンター試験はもってこいなような気がする。これから定期的に受けてみようか。現役時代はかなりの苦痛だったけど、今ならかなり楽しめるぞ、これは。
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2005年12月25日
シャンメリー連鎖
今年はシャンメリーが手に入らず…。実験のデータ解析に時間がかかってしまい、スーパーに行った時間が夜10時を過ぎてしまった。そのスーパーの店員は赤いサンタ帽を身につけて働いていたが、彼は僕に小さな幸せをプレゼントすることを拒む。曰く「シャンメリーは売り切れました…」。で、手に入らないと寂しい気持ちになってくる。寂しい気持ちになったついでに、昔のことをいろいろ思い出してしまって、さらに気持ちが沈んでいく。やばい、これを書いている最中に涙が出てきた。ちょっと、もう続きは書けないや。みなさん、これからもあなたが大好きな人を大切にしていきましょう。
投稿者 はるお : 01:20 | コメント (66) | トラックバック
2005年12月24日
熟すまでの時間
ソウル大学の黄教授が辞任、論文の捏造を認めたからだ。人間は追い込まれるとこういうことをやってしまうものなんだと思う。これが短絡的な成果主義を導入したツケなのではなかろうか。地位や名誉を得るために有名な科学雑誌に載せるという行為だけでなく、これからはもっと身近な評価にも影響が出てくるはずだ。特に最近は大学の教員も任期制を採用しており、延長できるという条件があったとしても、3~5年で結果を出さなくてはいけない。そんな短期間で研究の成果を挙げるには、確実に結果が出るものに重点を置いて仕事をすることになる。もちろん、それで論文は出る。うまくいけばいい雑誌にも載せられるかもしれない。しかし、その一方で、3年で結果が出せなかった研究者が自分の職を守るために、データを偽造し論文を作成することも有り得ないことではない。短期間で成果を求められるがための自己防衛手段として小さな捏造が繰り返されるのだ。
こんなことでは、本当の科学の発展につながらない。短絡的な研究成果も捏造論文も科学の大きな飛躍を潜在化させてしまう。こつこつと仕事をして小さな仕事を積み重ねることが大切だが、じっくり時間をかけて成熟させる必要のある研究もある。そのような研究があったからこそ、これまでに数々の歴史的なパラダイムシフトが引き起こされたのではないか。突拍子もないアイデアを実現するために多くの時間を与えることは、最終的には人類の遺産になる。宇宙の歴史から見たら、人生の長さなど微塵もない。その長さを理不尽に制約することにどんな意味があるのだろうか。日本を変えたいなら、まともな科学者が役人にならねばならない。
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2005年12月23日
忘年会@はん亭
今年も同じく根津の「はん亭」にて、薬局の忘年会。これまで2階には座敷しかないと思っていたが、なんとその奥に離れのテーブル席がある。まさかそんなところで食事ができるとは夢にも思っていなかったのでかなり驚いた。値段やメニューが変わるわけではないが、少しだけ優雅な雰囲気になれる。その浮ついた感覚が不自然だったが、料理を味わうにつれ、だんだんと慣れていってしまうのが怖い。
和央ようかライブショー『W-WING-』の公演中止が決定したそうで、1月5日に見に行く予定だった女性二人がかなり悔しがっていた。松葉杖でも出て欲しいと思うくらい人気の高い宝塚女優さんのようで、今度の講演をかなり楽しみにしていたらしい。しかも、席もいいポジションだったと嘆いていた。払い戻しにするくらいなら、次回の公演の席も補償して欲しいと切なる願いをこぼしていたが、届かぬ思いなのでしょう。もう引退が決まっている女優さんということで、再演も期待できないみたいだ。この事件によって宝塚ファンが受けた打撃は想像以上に大きいようだ。
2次会は友達と二人で近くの居酒屋で。学会でハワイ帰りの彼も英語力の大切さを痛感したようで、とにかく最低限必要な英語を身につけたいと訴えていた。はっきり言って、向こうで英語が流暢に喋れないとバカにされる、特に普通のお店の店員とかに…。去年僕がサンディエゴの学会に行った時は、つり銭を誤魔化されたことが2回ほどあった。それに店員の態度もいいとは言えず、僕の出した50ドル札を疑いすかしを確認する一場面もあったくらいだ。基本的にずっと一人で行動していたので、あからさまに店員の差別攻撃を直に受けていた気がする。日頃の鬱憤を晴らすかのように黄色人種の男性をいじめるのだ。絶対に英語をものにしてやると誓った、英会話教室に行くくらいなら、現地に飛び込み体当たりを繰り返すのが、あらゆる面でコストパフォーマンスがいいのではないか。僕はまだまだ低空飛行の状態が続いているが、必ずや上昇気流に乗っていきたい。
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2005年12月22日
厳寒な宗谷
引き続き、ポスドクの方と一緒に実験をしているのだが、最後の方は双方とも疲れてきてしまい、なにやら話題が歌のことになっていた。まだ実験中で細胞に電極をさしている最中だというのに、頭に糖分が十分回っていないがため、集中力が落ちているのだ。それでも、うまくいくときはうまくいくのが実験なのですが…。それで、ついに昔懐かしのNHK「みんなのうた」などという単語が出てきた。もう二人とも回想モードに入っている。そのポスドクの奥さんが娘のため(?)に「みんなのうた」DVDボックスを買ったようで、なんと4万円の代物!160曲以上の「うた」が収録されている。
僕のお気に入りは「宗谷岬」、子供心にあの渋さは応えた。「流氷溶けて~、春風吹いて~、さざ波揺れる~、宗谷の岬~」。もう映像と共に僕は小学生に意識が遡ってしまい大変だった。実際に宗谷岬に訪れることができたのは大学2年生の夏。友達と二人で行った北海道北東部のドライブの通過点の一つであったが、ここが日本の最北端中の最北端だろうと思われる小さな岩場で写真を撮った記憶がある。風も執拗に強く、夏とは思えない体感が、まさに「宗谷の岬」のイメージ通りで密かにうれしかった。オホーツク海から送り出されてくる厳しい風が宗谷岬をつくっているかのようだ。その風が途絶えることは僕の中では岬がなくなるのと同じように感じる程。あっ、「北風小僧の寒太郎」も思い出してしまった…。
投稿者 はるお : 01:41 | コメント (1148) | トラックバック
2005年12月21日
バイトのしすぎ
なんだかんだ言っても東大生の親の年収は一千万円近いのか、うらやましい限りだ。僕の両親の年収は二人合わせても彼らの半分にも届かない、授業料が免除される理由がよく分かる。それでも、実家がそこそこ貧乏だったことには感謝している。自分で学費を稼ぎながら勉強することで、学問の大切さを噛み締めてこれた気がする。それに、多種多様な仕事を通して、多くの人に出会えて刺激を受けることもできたし、自分の知らない世界を垣間見ることもできた。自分を成長させる大きな要素としてアルバイトは位置づけるられる。ちなみに、僕が今までやってきたバイトは、こんな感じだ。引越、事務所移転、内装、荷物搬入・搬出、道路工事、家庭教師、塾講師、薬剤師、プログラミング、ベンチャー、もうさすがに科学に集中したい。そのような社会的立場にいられるのかは未知数だけれど…。
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2005年12月20日
信念の矛先
今日は研究発表をし、夜はラボの忘年会へ。1次会は鍋料理を食べ、2次会は教授宅での飲み会になった。夜も更け、学生の数も4人程度になった頃、サイエンスの話をする機会に恵まれた。教授も大いに迷って研究を続けてきたことなどを聞いて、今の自分と照らし合わせる。現段階では、これだと思える研究対象が見つからないため、研究の進み具合も牛の歩みだが、自分が信念を貫ける選択肢に人生を賭けることが必要なのは確かだ。それを見つけることが研究者を続けていく上で、最も重要なことなのかもしれない。自分の全てを捧げられる研究対象を探し続ける努力を惜しんではならない。
僕が研究対象を絞りきれない理由には、実証論的科学の存在がある。実在論者であったアインシュタインの相対性理論は驚異的な素晴らしさであったが、いまや彼の主張した「神はサイコロを振らない」はほぼ否定されている。ましてや、ホーキングの宇宙論のように虚時間の宇宙の導入を目の前にしてしまい、そのアイデアに完全に魅了されてしまったのだ。実証論的な科学は今のところ正しい。ゆえに、科学のコト的世界観を受け入れてしまった僕にとって、物質だけを扱っている神経科学に満足が行かないのだ。もちろん、物質が重要ではないと言いたいのではない。神経の活動原理に関する関係性が成り立つ上で、物質が生じることに不思議はないし、必然であろう。でも、僕が本当に知りたいのはその活動を支える基礎原理なのである。ペンローズの量子脳理論はまだ理解に苦しい。しかし、そのような発想を持って脳の活動を記述しようとする試みは今後も必須であろう。今後、時間をかけてあらゆるジャンルの論文を読み、自分が進むべき道を確信を持って選択したい。いつしか意識を含む脳内神経活動を関係性で記述できる日を夢見て…。
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2005年12月19日
神経科学の向かう先
やはり研究者を辞めるわけにはいかない気がしている。当たり前の話だが、科学の進展は研究者なくして始まらないからだ。優秀なサイエンスインタプリターが将来多く輩出されることを望んではいるが、たとえ秀逸でもすぐにその活動が認められる訳ではないだろう。実際に現在活躍しているサイエンスライターだって、素晴らしい作品を世に送り出しているのに、なかなかその輝きを真っ当に受け止めてくれる人が少ない。彼らの社会的地位を改善する方策も絶対的に必要な事項である。
科学教育で最良と思われる方法は、第一線で活躍している研究者が直接市民と語らうことと信じられている。研究者が積極的に市民に語りかける意思を持つ場が多く提供されることに越したことはない。しかし、威圧的にならず身近なものとして、研究の内容を丁寧にかつ本質を失わずに伝えられているだろうか。研究者の考えを保持しながらも、市民の視点に立って、科学の面白さ伝える努力が惜しまれずに行われているだろうか。彼らの話を聞いて、純粋に面白いと思えるような仕事を提供できるかが重要なように思える。面白さをうまく伝えられるように工夫することも大切であるが、聞いていてつまらない話は注目に値しないものだ。
単純に面白さだけを狙うと科学的な信憑性が疑われることもある。ゲーム脳の話などは大人の偏見が生み出した残骸で、あのような結果に疑問を呈する。いわゆる「とんでも科学」が生まれてくる可能性もあるわけだ。確かに科学的に面白い発見というものはそうないものだが、脳の研究は面白い成果が出てくるのではないかと期待感を持ち合わせている。そのような期待感もあわせて、ゲーム脳のような話題が我らが脳化社会に多大なインパクトを与えてしまうのだ。脳は小さな宇宙、それだけに謎が多いし、心の在り処とも言われている。興味が持つ人が多くても全く不思議ではないから、それだけにもっと慎重に語られていいはずだ。
研究者の視点に立っても、脳の研究は混沌としていて、何が分かったのかよく分からない状況になっている。脳という臓器の複雑さに多くの研究者が様々な角度からあがいている訳だから仕方のないことかもしれない。それらの仕事を統合的な視点に立って纏め上げる必要性が叫ばれているが、それを現実化するために具体的に活動している研究者はいない。理由は簡単で、そんな仕事をしても業績にならない確率が高いし、その結果、メシが食えなくなってしまう危険性をはらんでいるからだ。そんな勇気ある研究者に自分がなろうかと考えているが、まだ二の足を踏んでいる。自分がその一歩を踏み出すことができたとき、神経科学に携わっている研究者の意識が少しでも変わることを願っている。そして、僕自身が市民との繋がりを構築できるような努力を続けたいと思う。
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2005年12月17日
地味な筋トレ
上唇が動かない。今まで全く意識したことがなかったが、僕は喋るとき上唇がほとんど動いていない。ためしに下唇を手で押さえてみると、もうそれだけで発音が不明瞭になる。これは英語を話すのに決定な不利益をもたらすということに、今回やっと気が付いた。そもそも顔の表情筋の基礎体力がないのも問題だ。普段の生活ではあまり表情が活発に変化することもないので、ありとあらゆる顔の筋肉が衰えているのかもしれない。子供の頃からそんなに積極的に発話をしてきたわけではないので、声を出すこと自体が苦手になっているのだ。いい声も出なければ、滑舌もよいとは言えない。その結果、歌もうまく歌えないし、スピーチもたどたどしいものになる。コミュニケーションの手段として最も強力な言語的音声にパワーが欲しい。これから少しずつ顔の筋肉を鍛えていこう。特に口周り(特に上唇と舌)の筋力を増強することで安定した音声を紡ぎだせるようになりたい。日を見て筋トレを行おう、ウェイトリフティングとは対照的な地味なエクササイズが始まる。
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2005年12月16日
進化の妨げになるもの
ダーウィンの進化論では生命の進化を完全に説明することができない、これが根強い「創造説」を生み出す。キリスト教の聖書に出てくるような、この生命世界は神様が創ったという類の話である。「創造説」はその宗教性があからさまだが、その思想は脈々と受け継がれ、いまや「インテリジェントデザイン(ID)」と呼ばれるようになった。日本語では知的設計などと訳され、新聞でも話題になり始めている。ようは、生命の誕生は進化論では説明できないのだから、その誕生や進化には何かしらの知的設計者が関わっていたのではないかということを主張しているわけだ。それを学校で教えるべきかどうか特に米国で論争になっている。
問題は科学的根拠が全くないことだ。ID説を語るならそれを支持するような論拠が必要になるはずだが、もちろんそんなものは一切ない。しかし、仮説の検証において、それを否定するものが証拠として出てこなければ、仮説の棄却は論理的に困難である。だから、ID説なら進化論では説明のつかない生命の進化を記述できるでしょ、という展開になるのだ。これはやはり宗教的な思想がとても根深く潜んでいることが伺える。
実は科学をすればするほど、神がいるのではないかと思うような不思議で美しい現象に出会ってしまう。崇高な物理学者は熱心なキリスト教信者であるなんて当たり前の話だ。それだけ自然というのは絶対的な存在を疑ってしまうほど、よく出来ているのである。何が生命の美しさを創り出したのか、その解答はそんなに簡単に手に入れられるものではない。僕たちはある時点で、そういう風に出来ていると納得してしまった方が、幸せな生活を送れるのかもしれない。しかし、それでもなお生命の起源を追究することで、進化の理解を手助けする発見が見つかることを願う。ID説を受け入れたら、進化を対象とした研究が前進しなくなり、それこそ人間の文化的進化が止まってしまうはずだ…。
投稿者 はるお : 01:15 | コメント (93) | トラックバック
2005年12月15日
学位への最短距離
とりあえず、データの搾取は終了。結果は…、実験にならなかった。。。もちろん、得られたものが全くないというわけではないのだが、論文の流れに乗るような実験結果は得られなかったということである。明日中に解析して、教授に一度見せよう。そして、この路線での実験的な検証は困難であることを伝えねばならない。
僕が今回得られた結果を論文にしようとすると、また違った仮説を構築する必要が出てくる。それはそれで面白いテーマであると思うし、それをサポートする論文も何報か出ている。しかし、いま解決しなければならない問題は別であるから、それに手を出すことは論理の一貫性を曲げてしまうことになるのだ。分からないことなど山ほどある。そのなかで科学をやるということは現在取り組むべき問題意識を明確にすることにあるのだ。ひとまず、僕がやるべき検証実験が落ち着くまで、その議論は胸の中にしまっておこう。たとえ、面白そうなデータであっても、信憑性が確かでない議論を先行させてはならない。また、時が経って、やるべき時期になったら、その方向に実験をシフトしていけばいいだけのことである。論点をしっかり見据えて、今回明らかにしたいことを論文で明確に主張すること、これが僕が博士号をとる上での最短ルートになるはずだ。学位を取ることで研究者としてスタートラインに立つ、短絡的な思考のようだが、この部分は受け入れざるを得ない博士課程の理念のように思える。
投稿者 はるお : 02:14 | コメント (113) | トラックバック
2005年12月14日
睡魔が天使
徹夜明け…、実験しながら眠っていた。自分でもナルコレプシーになったような感触が奇妙だ。ポスドクの人と一緒にやっている実験もうまくいかず、明日も同じ過程が繰り返されるだろう。みんなこうゆう経験をして博士になるのかもしれないけど、こんな思いをするなら博士課程には絶対に戻りたくない!!って前にも書いたような気がする…。あ~、本当に頭が痛い、睡眠障害が慢性化しそうだ。
僕は寝るのが好きだ。たぶんご飯を食べるのより好きだ。早く快適な睡眠が取れるような生活を手に入れたいと願うが、そういうものは一生手に入らないのかもしれない。もし自分の好きなだけ睡眠が取れる時間があったら、一日の活動時間は12時間を下回るだろう。なぜか寝すぎても後悔することはない。逆にその睡眠に満足感を覚え、精力的に仕事をこなせることもある。でも、やっぱり、それだと時間が足りないんだな。時間の流れを規定するのは自分自身、自分が快適だと思う時の速さを手に入れればいいのだが、現代の生活ではそれは極上品なのである。
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2005年12月13日
銀河鉄道は何処へ
「銀河鉄道999」を見て、宇宙に想いを馳せる…。そういった少年は多かったに違いない、僕も大好きだった。宇宙を舞台にして、人間の行き先を模索する姿を一人の少年に重ね合わせる手法は、多くの世代を物語の虜にしたのではなかろうか。そして、この作品を見ることで得られる教訓もあった。松本氏は意図して、そのような教訓性を作品の中に取り込んでいったのだろう。また一方で、本作の主題歌も良くできていた。通常アニメ版しかり、劇場版もしかりである。副産物とはいえ、作品を引き立てるオリジナル歌の重要性は無視できないだろう。松本零士の代表作ともいえるこのSF作品が僕に与えた影響はあまりに大きすぎた。手塚治虫と並んで尊敬している漫画家である。
銀河鉄道という名は明らかに「銀河鉄道の夜」から喚起されたものだろう。このように、松本氏に影響を与えた宮沢賢治もまた偉大な作家である。賢治はアインシュタインの相対性理論を理解し、それを自分の文学に生かしている。僕が宮沢作品に出会ったのは小学生のときだった。父親に連れられて映画化された「風の又三郎」を見に行った記憶がある。現代にはそういう作品があるのだろうか。あったとしても埋もれているのが実情なのだろう。きっと僕が描きたいのは賢治のような世界なのかもしれない。彼の出身は岩手県だ、岩手をふくめ東北には不思議な縁を感じる。
科学の普及は松本零士や宮沢賢治のような作品が世に出てくることで自然に活性化するのではないか。サイエンスライターやライエンスインタプリターはもちろん必要だ。しかし、それ以上に求められている作品が現代にはある。銀河鉄道のような世界観を何とかして別の形で提供する術はないだろうか。そして、その作品を特徴的なメロディに乗せて印象付けたい。そのような創作活動が生み出す価値は無限大のように思える。なんか、やりたいことがありすぎて目が回りそうだ。
投稿者 はるお : 03:42 | コメント (74) | トラックバック
2005年12月12日
神への誓い
本来なら今日は仙台に行っていたかもしれない。僕が東北大学にいたときに所属していたマンドリン楽部の40周年レセプションが行われたからだ。マンドリンの演奏も聴けるし、久しぶりに先輩や後輩に会えるだろうから、楽しいことこの上ないに違いない。もう、参加することを想像するだけでもウキウキしてくる。しかし、今日は母方の従弟の結婚式であった。
僕には結婚願望はあるが、結婚"式"願望はない。披露宴に関してはなおさらだ。結婚の誓いは何に誓うのか、神に誓うのか、相手に誓うのか。今日の簡略的な神前式を見物して、心の中は違和感だらけになった。儀式を行うことで記憶を強固なものとし、誓いの精度を向上させるという行為にも映る。すると神は建前としているに過ぎない。特に今日のような段取りは、誓いというよりかは、まさしく契約手続を踏んでいる情景そのものであった。結婚は契約だという言葉が強烈に前面に出ている。一昔前の日中国交回復の調印式を見ているかのようだ。
自分が心から信じている神の前で愛を誓うことから、このような儀式は始まっているはずだ。それが形式化して現在に至っている。ところが、いまや本末が転倒してしまって、本来の意味を失っているわけだ。つまり、「形式化した儀式を行うことで、神の前で愛を誓ったことになってしまっている」状態ということができる。形骸化した結婚式に僕は意味を見出せないし、深く考えることさえできない。
この世に絶対はないのかもしれないが、僕が絶対的な愛を誓うなら「マザー・ネイチャー」に誓うだろう。自然は目の前に溢れかえっているから、どこで愛を誓っても本来なら構わない。しかし、儀式を行うなら、その厳格な神秘性を肌で感じることができる所がいい。もし僕が結婚式を行うなら、凍てつく氷に囲まれた極限の大地、満天の星空、そして幾重にも広がるオーロラのカーテンの下で愛を誓いたい。新婦に断られたら?まぁ、しばらく協議すると思うが、譲れない部分は出てくるだろうな…。
投稿者 はるお : 00:35 | コメント (104) | トラックバック
2005年12月10日
物質をめぐる冒険
竹内薫著「物質をめぐる冒険」を購入し、一気に読み切る。途中、破れているページがあって、生協の書籍部に憤りを感じたが、そんなことは気にならなくなるほど、快調に読み進めることができた。本来なら書評の形式で掲載したかったが、時間がないので、ちょっとした感想を綴ってみることにした。
モノを研究している学者はこの本を読まない方がいいのかもしれない。なぜなら、読んだ次の日から自分の研究を投げ出してしまうことが予想されるからだ。それほどに、著者の提唱するコト的世界観は非常に魅力的で、かつ我々の住む宇宙の本質を突いているのだ。
現代物理学では、この世にはまず何らかの「関係性」があって、そこから自然と紡ぎ出せられてくるモノが「物質」だと考える。逆に言えば、物象化することで、そのモノは安定な状態となって僕たちの前に立ち上がり、それらを見たり触ったりすることができるというわけだ。ニュートンの時代には、扱いやすい「物質」を対象として理論が構築され、現代となっては、モノの間に横たわる「関係性」に重点を置いて物理学が発展しているということになる。
その一方で、現代の生命科学研究はどのような過程を歩んでいるだろう。一言で言えば、生命を「物質」として研究することで医学などに貢献しようとする動きがある。生物学の研究は今もなお物象化の一途を辿り、「物質」で生命を説明しようとしている。たしかに医学には莫大な貢献を果たすだろう。しかし、生命を科学的な思想で捉えるのであれば、このままでは生命の真の理解には到達できない。少なくても細胞と個体の「関係性」すら記述できていない現状では絶望的だと考えてよい。もちろん、その「関係性」を解き明かすことは挑戦的な課題であるため、研究の遂行が非常に困難であることを否定しない。しかし、その困難さに立ち向かわない限り、次に起こるべきパラダイムシフトを現実化する可能性は皆無に等しい。
ある調査で、偉大な科学者投票をニュートンとアインシュタインの間で行ったところ、ニュートンの方に軍配が上がった。市民に聞いても科学者に聞いても、人間へ対する貢献度・科学に対する貢献度のどちらもニュートンの方が優勢だったのだ。それは物理学の創設という意味で確かにニュートンが優位かもしれない。けど、ニュートンの提唱したモノの力学は、どんな人にとってもイメージが湧きやすく、心理的にも安心できるものだったのではないだろうか。
例に漏れず、生物学者もニュートン的なモノ的発想に落ち着きを感じているのだろう。しかし、その安住の地に留まり続けていては、今後の科学的革命は起こりえない。多くの生命科学を専攻した大学院生たちよ、勇気を持ってこのコト的世界観を受け入れよう。そして、生命に対するより深い洞察を共有していこうじゃないか。
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2005年12月09日
噴水をバックに
SEGから講師の仮採用通知が来た。研修が1月中にあるという。まだその時期は忙しい気がするのだが…、仕方がないか。その後、2月の上旬に最終登用試験を行うようだ。1月は時期的にはセンター試験、受験業界きっての大イベントがある。講師の方も力が入る、そんな彼らの姿を観察して、必要なものを吸収しなさいということだろう。
ちょっと脱線して、南果歩さんの話。先週再婚した彼女だけれども、実は僕が間近で見た一番最初の芸能人だ。小学校6年生のときに社会科見学で国会議事堂などを巡ったとき、最終集合地点の日比谷公園で彼女の撮影が行われていたのだ。当時芸能界のことなんかにもちろん興味がなかった僕は、彼女が一体誰なのか全く判らなかった。友達伝いにそれが南果歩さんだと教えてもらったが、実はあまりピンと来ず、そういうアイドルがいるんだという認識に過ぎなかった。もうあれから16年が経ったのか、彼女にも同じだけの時間が経ったとは思えなかった。彼女のアイドル性が僕の心の中に残っているのかもしれない。
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2005年12月08日
つべこべ言いたい
実験がうまくいかない。思い通りにことが進まないのは当たり前のことだが、こうも技術的障壁が高くて失敗することにストレスは高まるばかりだ。そもそも今やっている実験の成功率は1割もない。この成功確率を上げていかない限りストレスの解消はないだろう。しかし、この問題を数をこなすことで解決する動きがある。つまり、成功率が低くても実験数を増やせば、それなりにデータを集めることができるだろうと言う考え方である。本当はこの考え方に反対したい。成功率が上がる積極的な方法を考えることが最終的に結果のクオリティを上げることにもつながるはずなのに。
実験を繰り返す過程で成功率が上がることもある。作業に慣れることによって、余分な動きが無くなるからだ。しかし、アプローチを変えるだけで、実験の成功率が3割になるなら、そのような方法を模索した方が価値が高いのではないか。一度は遠回りをしなくてはならないけれども、最終的には良質な結果が得られるようになるし、精神的にも体力的にも徒労を抑えることができる。無駄が悪いとは言わないが、あまりに強引なマンパワーの導入は、人のやる気を殺ぎかねない。本当は今の状況に抵抗したい、けど、そんな時間も無いほど焦っているのも現実なのだ。論文ができるのなら何でもやります…、非常に精神構造が屈曲してきてよくない。
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2005年12月07日
天の波長
僕が唯一定期的に見ているテレビ番組サクサクを見ていて思うこと、「いいアーティストをピックアップしているな~」。いわゆるオリコンチャートランキングはアイドルたちの歌が上位を占めるが、そんな消費構造に負けないで頑張っているアーティストの姿が素直に映っているから見ていて楽しい。さすがにインディーズバンドが出演することはないが、メジャーデビューしてもコツコツと自分の信じているものを謙虚に追い求めている人たちで好感が持てる。ちなみに、今週はデパペペというギターユニットで、インスツルメンタルで勝負している青年たちだ。
コブクロに出会ったのもこの番組であった。少し前から話題にはなっていたようで、ドラマの主題歌(「ここにしか咲かない花」)にも選ばれていたとは知らなかった。先月リリースされた「桜」がきっかけで、彼らの世界をもっと知りたくなり、アルバムを4枚とも聴きあさった。なぜか彼らの歌は心地よい、どんな曲調であっても自分と波長が合うのだ。世代とかも関係あるのだろうかっと思い、彼らの年齢を調べたら、なんと自分と同じだった。そして、驚いたことに、彼らは二人とも昭和52年3月生まれの魚座で、僕と全く一緒なのだ。僕たちが生まれてから同じだけ星が天を周ったことが、なにかしらの安らぎを与えてくれるのか。それが天の不思議さなのかもしれない。
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2005年12月05日
生命を斬る
頭がいい奴は生物学をやらない、っという観念が科学界にはある。数学ができないから、物理が分からないから生物学でもやろうと考える人がいるからだ。確かに数学ができるというのは、「頭がいい」の代名詞とも思えるし、数学を使って自然を記述する理論物理学は、科学の崇高な花のように映る。それに引き換え、生物学は実験をやれどもやれどもパッとした結論が出ない。まったく切れの悪い刀のようというか、鈍器である。それでも、生物学者はその刀を研ごうとせず、ひたすらその鈍器で宿敵を打ちつづけるのである。生物には理論が無いといわれる所以だ
理論は美しい、だから多くの人を魅了する。多くのエリートはその美しさに魅了され、その取り扱いが可能だと判断すれば、理論の構築を志す。実際に自然がどのように成り立っていようが関係ない、実験的に検証できなくてもいい、「つじつま」が合えばいいのである。壮大な仮説は万人にとっても興奮を喚起する記述だ。実際に検証できなくても全然構わないと思わせてしまうロマンを抱かせてくれるものだろう。そんな「考え」に出会えただけでも素敵だ、きっとみんなそう思う。
ロマンチックな理論物理学の対極が、泥臭い生物科学かもしれない。胡散臭い論文も山ほどある。それでもなぜ生命を研究するのか、それはやはり自分が生命であるからに他ならないと思う。自分を知りたい、自分の根源を探求したい、そういう欲求の湧きあがりが止まらないのである。でも、さらに欲を言うなら、生命科学にもう少し理論物理学的な思考を導入してもいいと思う。数理的に生物を扱うことが始まってはいるが、まだまだ物理学と生物学との間にある垣根は高い。生命が持つ多くのブラックボックス、最終的にすべてがわかることは無いかもしれないけれど、なんとかしてこのブラックボックスの中身を垣間見てやろうとする努力をするべき時期になっているのではないか。
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2005年12月04日
いざ、生理学会へ
3月に前橋で行われる第83回日本生理学会大会に自分の演題を出した。実は博士課程に入ってから、学会発表はあまりしてこなかったけれども、これが最後の機会になるかもしれないし。なぜ、最近になって、学会や研究会に消極的かというと、もう純粋に魅力的な演題が少ないから、である。学会の役割は人とのふれあいの方に重点が置かれるだろう。久しぶりにいろんな人と会って、ある程度意見が交換できれば学会の価値は十分にあるのではなかろうか。無理に興味ない演題を聞いたって、言葉が頭の中に入ってこないのさ。
そういう意味では、交友関係が広いに越したことはないのだろう。でも、僕は人的ネットワークを拡大するのがそんなに得意ではない。だから、いい仕事をしてアピールしていこうと考えていたが、結局自分の研究が面白く発展したとは言い難い。そうなると、悪循環になってしまって、最終的にリンク数の少ないノードの一つに成り下がってしまうんだよな。もっともっと積極的に活発にコミュニティーに参加していかなくてはいけない。何でもいいから少しずつ他者にインパクトを与える活動を意識して、社会の一員として認められるカタチを残していきたい。
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2005年12月03日
関わり合いが生み出す人間味
物事を「分割」して考えていけばいく程、何かが失われていく。世の中はあまりに複雑すぎて、細かく事柄を分断していかないと思考が追いつかない。特に科学は還元主義的な思考が大成功を収め、今の地位を確立したと言ってもいいだろう。複雑なものを単純化すること、これが科学の代名詞にもなっているわけだ。研究対象の本質が単純化することで明確になるとき、自然が見せる美しさもまた一際である。科学者はその美しさに見せられているはずだ。
細部が分かれば全体の理解につながるように思えたが、実際にその試みは今のところ失敗に終わっている。生命科学が発展して、分子生物学のような分野が医学にもたらした効用は大きいが、我々の「生きる」ことを説明することはできない。漫才を見ている人が笑っている場面を科学的にどれだけ説明できるだろうか。笑っている人間の細胞が笑っていれば話は面白いが、そのようなフラクタル性はなさそうだ。面白いと思わせるものは何なのか、面白いと思う感覚と笑うという行動の関係性は記述できるのか、笑うことによる身体への影響はどうなのか。今のところ、この中で研究できそうなものは、一番最後に言及したことくらいだろう。とりあえず、アウトプットされたものを何か定量的に分析するくらいしかできない。まだまだ、それだけでは僕たちが行う多岐の生命活動を説明するには程遠い。
科学は人間味がないと言われるときがある。それはきっと人間を考えるときに人間を「分割」して考えてしまうからである。そこには関係性の「切断」が伴う。関係性がなくなると、人間味がなくなる。人間味を生みだす関係性を発見できる日は来るのだろうか。物欲があるうちは100万年経っても無理だろうな。
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2005年12月02日
ネットワークの親
ネットワークのつながり方にエネルギー的な要素は関わってくるのだろうか。ネットワークと言えば、一番最初に思いつくのがインターネット、それを例に考えてみよう。インターネット上には星の数ほどのウェブサイトが散在していて、僕らはそれらをリンクという繋がりを通して、無数のホームページを行き来している。ヤフーのようなリンクをたくさん持つポータルサイトのようなページもあれば、僕のサイトのようにリンクが数えるほどしかないページも山ほどある。このようなネットワークの構造をスケールフリーネットワークと言うが、スケールフリーネットワークが形成されるための条件とは何であろうか。また逆に、スケールフリーネットワークが生み出す性質は一体何なのだろうか、そのような疑問が生じてくるわけである。
インターネットのリンクであれば、自分で強制的につくることができる。僕のホームページだって、リンクを増やそうと思えば、ゲリラ的にその数を増やすことはできる。だからといって、リンクされる数が増えるわけではないが、いまやトラックバックという奥の手を使えば、自分に対するリンクも意図して形成できる。このリンクの形成には人の意思(エネルギー)が関わっているのだ。じゃぁ、スケールフリーネットワークが形成されるには、意志がはたらく必要があるのかといえば、そうではないだろう。神経細胞のつながりなどもスケールフリーネットワークになっていたりするからだ。つまり自然界には、そのようなネットワークを形成する素質があるわけだ。その素質とは何だろう、エントロピーや確率的要素が絡んできそうだ。だが、ネットワークをつくる上で規定されるパラメーターは人間が与えるのではない。自然がどのようにしてこれらのパラメーターをいじっているのかを知りたい。この分野はもっと勉強しなければならないところだ。
投稿者 はるお : 03:49 | コメント (99) | トラックバック
2005年12月01日
歌にのせて
「The apprentice」の主題歌は品がない。Money, Money と連呼している部分があったりするからだ。しかし、そんな歌詞にもかかわらず、それなりの音楽にはなっているから怖い。こんな歌詞でも音楽になるなら、「前頭葉のうた」とか「海馬のうた」とかを作りたくなってきた。サクサクのご当地ソングのノリで「神経のうた」とかがあってもいいじゃないか。いい音楽に乗せることができれば、歌って科学を楽しめるようになるかもしれない。まぁ、あくまでエンターテイメントとしてということで。作曲ってどうすれば、できるんだ。一朝一夕できるものではないだろう、スマッシュヒットを出すのがあれだけ大変なんだから。やっぱり楽器が欲しくなってきた。けど、その前にやることが山ほどある…。