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2006年01月31日

サディスティック・ミカ・バンド復活

サディスティック・ミカ・バンドが17年ぶりに復活!らしい。なんとも日本最古のロックバンドらしく、唯一イギリスでツアーをした伝説のバンドと言われている。当初はミカさんという人がボーカルだったが、夫であった加藤和彦との離婚で1975年に解散。その後一度だけ桐島かれんを迎えて1989年に再結成されたが、活動は限定的だった。そして、2006年、17年ぶりにその伝説のバンドに才能を認められ、迎い入れられたのが木村カエラだ。彼女のサウンドが伝説のバンドと同化するなんて信じられないが、それだけの力量は誰もが認めるだろう。僕も彼女の予想以上のライブパフォーマンスに驚愕したものだ。彼女の歌は再生機器で聴くより、生で聴くほうが万倍もいい。あの芯のしっかりした安定した歌唱力、ロック音楽が身に沁みている躍動感、それでいて可憐な可愛さが宿っているのだから、もう文句なしの抜擢だろう。サディスティック・ミカ・バンドがライブなんかを行うことになったら、たぶんチケットを買ってしまうな。今後の長期的な活動を期待している。

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2006年01月30日

音を作りたい

なんか今音楽が無性にやりたくて仕方がない。とりあえず音が出るものが欲しい。安価なキーボードでも買ってみようかと思い、ヤフーオークションのウィンドウショッピングをしてみる。ホントに何でもいいんだったら、5,000円も出せば買えそうだなということが分かり、本気で購入を考えてしまった。でも、買ったところで今は練習する時間など取れるわけないから、無駄遣いになってしまうわけで、もう少し時期を待ってみるべきだというのが妥当なんだろう。こういう衝動を無理に押さえ込むと体に悪い。自分は思いついたらパッとやってしまう方なので、なんともストレスがたまる。パッとやってしまった後に飽きてやらなくなることもよくあるが、やらないで我慢していることより全然心が健全なのだ。ここに来て自分の気持ちが停滞していることが手に取るようによく分かる。早く自分を解放したくて"うずうず"している。そんな僕の気持ちは蔑(ないがし)ろにされ、教授の頑固なわがままは続く。さすがに卒業が危うい。このままだと彼の了承が取れそうにないぞ、このまま撃沈するのは避けたいのだが、今後の行く末はどうなるのやら…不安で仕方がない。

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2006年01月28日

集団が生み出すもの

個性が集団化するとその個性がなくなり、集団としての性質が際立ってくる。これはどんなことにでも当てはまることなのかもしれない。物質を分解していくと原子や素粒子のような量子になるが、量子の性質は周りの量子の影響を受けないときに顕著だ。つまり量子が単独で行動しているとき、量子の持つ波動性がハッキリ見てとれ、量子に相互作用するものが増えてくると、その個性が平均化されてしまう。量子の持つ個性的な確率波が平均化していくことで、量子の集団は徐々に物質として目の前に立ち上がってくるのである。量子の波動性が消えていく代わりに粒子性が顕著になり、衝突も可能になるし、位置や運動量も確定できるようになる。そのような物質はニュートン力学で記述できる。

空気中の分子の運動も一つ一つを統計力学的に解析し、その分子数が膨大な数になったら熱力学の法則に従うようになるはずである。実際にはまだ計算が合わないところがあるようなのだが、前提に不足がなければ理論的には成り立つように思える。分子一つの性質と大気全体の性質は、見た目全く異なるように映るが、ミクロの視点とマクロの視点が共有できる事実が見出せることができれば、それは十分価値がある。それを逆に言えば、スケールを超えて成り立つような理論が打ち出されることが待ち望まれているということだ。

生命も同じで、分子が集まって生命体として機能する不思議さに問いかけをしたい。生命を構成する分子固有の性質が莫大な相互作用を経由することで次第に無くなっていき、最終的には生命全体として固有の特徴が現れてくる。さらに規模を大きくして考えると、人はそれぞれ個性を持っているが、それが集団を形成したとき、集団としての新しい性質が際立ち、人一人の個性は無視されがちである。集団が生み出す新しい形質に何か規則性があるのだろうか。きっとそれは相互作用の仕方にもよるだろう。純粋に平均化だけで説明できるものとも思えない。そこに生命活動を理解する一つの鍵が隠されていることは間違いない。

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2006年01月27日

東大和市関連

実家がある東大和市のニュースが連日報道されている。まず、「一夫多妻男」事件では、占いの底力を見たような気がした。女性たちは男に監禁されていたわけではなく、好きでみんな一緒に暮らしているわけだ。彼女たちから見たら、この男は相当魅力的な存在なのだろう。どのようなトリック(?)を使っていたのかは皆目見当もつかないが、占いが彼女たちの本心を揺るがし続けたのは間違いない。そこから得た信頼は絶大な効果を発揮するようで、女性たちは男の虜となり、そこから離れられない心理状態になる。これも一つの新興宗教みたいなものなのか。神の如く信じられる者が目の前に立ちはだかったとき、多くの人間が盲信的になる事実を再び突きつけられた形だ。

痰の吸入を必要とする幼児が保育園の入園を拒否されたという話もあった。最終的には市が入園を受け入れる形で決着したようだが、医療行為という字面だけで対応を硬直化させるとは、なんとも発想が乏しい。子供を預かる方はそれなりの責任を負うことになるとは思うが、適切に処置がなされれば問題ないというのだから、そこは柔軟な思考で問題を解決して欲しい。たとえ医者や看護婦じゃなくても、人を思いやれる優しい気持ちがあれば、いくらでも人を助けることはできるはずだ。それを前提にそれなりの看護制度を整えるような方向性に発展していけばいい。

巨人にいた江藤智の西武入りが先週決まったが、彼は東大和出身で西武ファンだったらしい。東大和市は北側で所沢市と隣接しているために、確かに西武ファンが多い、まぁ、僕も含めて…。小学生時代は青いライオンズキャップを被っていましたから。いまや往年ほどのファンではなくなってしまったが、細々と応援しているので、ぜひ活躍して欲しい。

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2006年01月26日

知性の伝達

SEGの研修が始まる。といっても今日は授業見学でベテラン講師の指導ぶりを拝見することに尽きた。対象は高校2年生の最上位クラス、演習クラスだったので、講義は入試問題をベースに展開されていく。

まず、講義の時間が長い、なんと1コマ3時間半である、もちろん化学だけで。途中に10分休憩が2回入ったが、20分くらい延長したので、実質的な講義時間と言ってよい。高校2年生がこんな濃い授業を受けることができるのか、やはり塾はじっくり選んだ方がいいなと感じる。一方、よく高校2年生がこんな長い時間の講義に耐えることができるなと関心。僕は塾に通っていなかったので、塾通いの人の心理は当時分からなかったのだが、これはかなり大変な労力だ。高校2年生の僕がこの授業を受けたら、ついていけるのだろうか。もし僕がこんな進学塾に通っていたら勉強なんて嫌になっていたかもしれない。放任主義の親に感謝か!?。

講義中僕が寝てしまいそうになったが、授業見学レポートを書かないといけないので、必死に話を聞き取る。高校2年生でこんな高度なことも教えるんだとビックリすることもあった。でも、基本的に大学に入ってからも必ず必要となることを懇切丁寧に教えており、授業としてはかなり良質なものである。これを僕が教えるとしたらどのように教えるのかをレポートに書き留め、提出することにする。洞察はかなり気合いを入れて書き込んだので、講師の反応がどう出るのか複雑な思い。ここまで考える必要あるのかよっというところまで書いたのだが、最終的に講師に必要なのはそういう細かい部分なはずだ。講師が講義で話す内容は知っている内容の10分の1もないのが本当のところで、そういうものじゃなくてはならない。高校生に適切な知性を伝達するためには、かなりの大胆さと繊細さが必要だ。これからさらに修行は続く。

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2006年01月25日

ひっぱたかれ続ける

午前中に音声言語教室でTMS(経頭蓋的磁気刺激法)を使った認知実験の被験者をやる。以前fMRIの被験者をしたとき、僕の脳形態画像を撮影してあるので、それを刺激位置の指標にできるのだ。刺激位置は、側頭葉に位置するウェルニッケ野の一部と文法中枢。TMSにより局所的に脳活動を低下させたときの、言語処理能力に対する効果を見た。画面に出てくる文字を読んだり、イヤホンから聞こえてくる単語を言ったりするのだが、それらの中には日本語として意味のあるものとないものがある。ボタンを二つ持たされ、その意味のあるなしを答える課題などをこなした。実験中、画面に出てくる単語はひらがな3文字程度のものなのだが、同じ言葉が出てきたときでも、答えやすいときと答えにくいときがあった。それはなぜだろうと思っていたのだが、一連の実験が終わったあとそのカラクリを教えてくれた。実は、単語が画面に提示される少し前に、0.04秒だけ単語が表示されていたのだ。気付く人もいるみたいなのだが、僕は全然気付かなくて、なんか少しショック。そのあと提示される単語と同じものがフラッシュされる場合もあれば、違う場合もあり、それが回答スピードに影響してくるようなのだ。0.04秒のインパクトを無意識のうちに受け取り、ある行為の判断を左右させているというわけだ。これをプライミング効果という。TMSで中枢を刺激することで、このプライミング効果がどのように変化するか結果が楽しみである。ちなみにTMS実験は磁気刺激により頭蓋骨を覆っている筋肉が収縮するので痛い!!3秒に一回頭をひっぱたかれる感じで、それが9分×4セットも続いたものだから、気が遠くなりそうだった。

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2006年01月24日

天国と地獄

研究室のセミナーでの論文紹介を終え、ホッと一息。今回は、カイニン酸受容体の長期抑圧に関わる報告について議論した。趣旨としてとても分かりやすい論文だったので、すんなり発表は終わってしまった。もちろんセミナーは日本語で行われるので(パワーポイントは英語にした)、終わったあと Ingo さんに質問はないかと聞いたら、「いい論文だった」という返事だけだった。確かにコンセプトが明確な論文だったからな、それに長期抑圧を引き起こすメカニズムについては雲を掴むような話なわけだし。分かりやすくって良かったんじゃないかと思う。

ホリエモン逮捕。あれだけ特捜部が騒いでいたわけだから、逮捕する気で動いていたのでしょう。後は時間の問題だと思っていた矢先の逮捕劇であった。確かにライブドアの業務には実体がないのだが、そんな会社はいくらでもある。その台頭として存在していたライブドアという会社が国の標的になったようにも映る。彼に罪の意識があったのかどうか真実は分からないが、ホリエモンの逮捕を見せしめとし、心中喜んでいる人間もかなりいるのではないか。僕から見れば、ホリエモンがやったことと国がやっていることに相違が感じられない。法律という人工的なルールだけがその境界を作り上げているに過ぎない。しかし、その法の裁きにより、4人の人間が一瞬にして地に落ちた。天国から地獄へ…株価も同様に暴落

今日の帰宅時、僕のポストも天国と地獄の縮図になっていた。そこには郵便物が二つ。一つは、修士のときの同級生が送ってくれたアメリカからの素敵なエアメール、もう一つは、奨学金返還誓約書の提出督促状であった…。印象的だったので、写真に撮ってみる。

heavenhell.jpg

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2006年01月22日

雪の暗示

受験の季節になると東京でも雪が降る。実際には混乱も生じたりして大変なことだと思うが、後になって思い返してみると、そういえばあのとき雪の中を頑張って試験会場に向かったな~などと感慨に耽っているものである。僕には高校受験のときにちょうど雪が降った思い出がある。たしか2月の上旬で、埼玉の私立高校を受けに行った時の様に思う。生まれて一番最初の受験がそれだったのだ。確か川越の方にある男子校で、受験というものがどういうものか分からず緊張していたときに、空から雪が舞い落ちてきたのだ。初めての受験で経験した雪景色は今でも心に残っている。そんなに大して降ったわけでもないのだが、線路の間に積もったかすかな雪の筋が印象的であった。だから受験と雪は切り離せない。今年関東でセンター試験を受けた人は、僕と同様に、雪が降っているのを見るだけで受験を思い起こしてしまうのではないだろうか。不思議に雪と受験生はよく似合う。

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2006年01月21日

寒さがいっそう

今週末は東京も雪が降るという予報が出ているが、寒いのはかなり苦手である。人間にもまだ冬眠の名残があるのではないかという自説を勝手に持っているくらいで、冬の活動は結構踏ん張ってこなしているのだ。本来なら活動を全て停止して春が来るまで寝ていたい。そして、春になり夏が来たらパワー全開で仕事をして、また冬になったら冬眠をする。こんな生活が送れたら結構幸せを感じてしまうだろう、時間が無駄になるとかいう後悔の念は全く生まれないように思う。

夏は心も身体も開放される。それを直に感じ取れるのがなんとも心地よい。常夏の国へ行ったら、一年中活動的になれるのだろうか。逆にメリハリがなくなる可能性もあるが、生きているうちに南国の生活を体験してみたいと思っている。うまくいかなかったら、また日本に帰ってくればいいだけの話だ。自分の身体が自然に回答を出してくれるはず。

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2006年01月20日

何が動いているのか

ここのところライブドアの問題で、株のニュースが一面を飾る日が続く。昨日はいわゆるライブドアショックと呼ばれる一連の売り注文で東証がストップしたが、今日はその反動で買いが集中したらしい。こういう時期をチャンスと見て、ちゃっかりお金儲けをしている人は少なくないであろう。株のニュースが頻繁に報道されることで、経済に関心が向くのはいいが、やっぱり株は「マネーゲーム」である。ギャンブルが好きなら、こういう激動の時期を見計らったデイトレードをするのがいいのだろうが、一体これは何を生み出しているのだろうか。お金さえあれば生活できる社会が生んだ最凶の弊害のように思う。ゲームは確かに面白いし、勝ったときの喜びも一入(ひとしお)である。数字が大きくなれば勝ちという分かりやすいシステムは、本当の経済価値を脱ぎ捨て、無機質な貨幣交換だけを一人歩きさせてしまった。経済活動に参加するということの真の意味を株の入門書を売る前に考えさせた方がいいのではないだろうか。

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2006年01月19日

文脈に溶け込む旋律

本日、木村カエラの新曲「You」が発売。以前放送されたPVを見て、歌詞を全て書き取っていたのだが、英語詞どころか日本語詞も聞き取れていなかったことが判明。英語のディクテーションをする前に日本語力を鍛え直した方が良さそうだ。日本語だって勉強しなければ、今以上にうまくなることはできない。自分の文章力を上げるためにも、分からない日本語があったら丁寧に辞書を引くようにした方がいいに決まっている。今はウェブで辞書が引けるから、気付いたときにさっと引いて、その意味をテキストで残して置くようにしている。一回で意味を憶えられる年ではないので、何回も繰り返しそのテキストを覗き込むようにしなくては。情緒ある日本語をとある文脈に投げ込むことで、美しい言葉の旋律が生まれるような、そんな物語を書いてみたいものだ。僕の言葉探しはまだまだ終わりそうにない。

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2006年01月18日

突然の来訪者

なんと今日から外国人が研究室に登場。イギリスの University College London (UCL) の Angus Silver ラボから来た Ingo Kleppe さんである。もう学位を持っているのだが、何といっても見た目が若い!年下なんじゃないかと思うほどだが、まあ年齢なんて関係ない。で、イギリス人かと思って話しかけたら、なんとドイツ人だった。少し訛っているためか英語の聞き取りは容易ではない、しかもよく喋るのだ。ハイデルベルク大学(ドイツ最古の大学)を卒業した後、ケンブリッジ大学で学位をとり、いまはUCLにいるのだという。学歴から察すると相当頭は良いのだろう。そして、奥さんが東工大にいて、日本にいる間はそのドミトリーで暮らすようだ。ウチのラボに1ヶ月ほど滞在して、シナプス前細胞へのパッチクランプとマイクロインジェクションを会得していく予定。訛りはともかく、身近に英語で話せる友達ができた。これからは彼に毎日話しかけようと思っている。これで少しは英語に磨きがかかればいいのだが…。

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2006年01月17日

ちょっとずつDTM

少しずつDTM(ディスクトップミュージック)に取り組もうと思い、セミナー終了後のちょっとした時間を使って、DAW(ディジタルオーディオワークステーション)ソフトを検討しにいく。秋葉原までチャリンコで突っ走り、ソフマップの2号館へ、5階に CREATORS LAND というMIDI専門の売り場がある。事前にDAWについてネットで調べたときは、Cubase、LogicやProtoolのようなものが目に付いたけれど、実際に店員さんに聞いてみたら、SONAR というソフトの使い勝手がいいらしい。今はCubaseからSONARに乗り換える人も増えているそうだ。その店員さんはとても気さくで、各種ソフトの特性や相違点、オーディオインターフェイスがパッケージになっている方がお得なこと、ボーカルのチューニングが可能なソフトの存在などを丁寧に教えてくれた。今回はとりあえず話だけを聞きに来たという感じなので、ソフトの購入はしなかったが、総合的に考えてもSONARはかなり良さそうだ。また余裕ができたら来店しよう。店員さんと仲良く慣れたし、次回の話のネタ作りを仕込んでいかなければ。

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2006年01月16日

適切な媒体

大学の情報学環で、コンンテンツ創造科学産学連携プログラムの募集をしている。情報学環ができたのも最近だが、産学連携を意識し始めたのはごく最近のことなので、このプログラムもまだ2年目である。実は今応募して見ようかどうか迷っている。特に学生のうちなら、登録料の10万円を免除されることも手伝って…。

科学を情報として人に伝えるということは、何かしらのメディアに乗せる必要がある。特に分かりやすく科学を直感的に理解できるようにするためには、映像の力も必要になってくるだろう。自分が映像作成技術を体得することは、相当な根気がないと難しいと思うが、その作業を理解することはできる。このプログラムの開設趣旨はデジタルコンテンツを生み出すことのできる人材養成だ。先端科学技術に関する知識を有すると同時に国際的なビジネス展開力を持つプロデューサーの育成も目指している。たとえ自分が技術者でなくても、伝えるべきテーマのコンテンツを提示し、確かな方向性を示してあげることができるようになれば、科学の浸透に役立つのではないかと考えられるのである。メディアを適切に使いこなせることができれば、いいものが埋もれないで日の目を見ることができるんじゃないか。そんな希望を持って、このプログラムの可能性を模索している。

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2006年01月15日

通過点で見える景色

目標の設定は適切じゃないと挫折する。自分としては結構大きな目標を設定する質だが、必ず通過点を明確化しておかなければならない。今、目指すべき通過点を通り過ぎたら、次の通過点のことを考えるようにし、またその通過点を超えることができたら、さらに次を目指せばいい。まずは現実的で目標が達成されそうなことから消化していこうと思っている。もちろん、現在は学位を取ることが目標であり、それを超すことができなければ何も始まらない。だが、なかなか学位を取るのも辛くて挫折しそうになる。ここまで来たらもう取るしかないのだが、精神的な重圧に押し潰されそうになることは多々ある。このチェックポイントを何とか通過することができれば、見える景色が変わってくるだろうと信じて、仕事をこなしていくしかなさそうだ。室内のランニングマシーンではそう長くは走れない、やはり素敵な風景を眺めながらが走り続けたいのだ。

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2006年01月14日

生の代名詞

混血の人はなぜ人を惹きつけるのか。多様性のある社会を生き抜かねばならないためなのか。それとも標準化が起こった結果なのだろうか。混血児が生まれる自然環境となれば、その場は多くの種がひしめき、生存競争が激しくなる状況が想定される。そんな苛酷な環境の中で、自分の遺伝子を残していくためには、自分が魅力的な存在となり、多くの人から愛される必要が生じる。それゆえに、混血の人は他を惹きつけるため、容姿が端麗となり、自らの絶滅を阻止しているのかもしれない。純血な環境であれば、周りに敵はいなくて、みんな和気藹々。そう魅力的な容姿じゃなくても子孫を残せる要素はあたりに転がっている。混血児の魅力は、競争の中から生まれる美しさということなのだろうか。

多くの人間は戦争などしたくはないと思いながらも、戦わなくては生きていけない皮肉な特性を持つ。戦争にいくら反対しても、人は戦うことをやめない。たとえ戦争じゃなくても、僕を含め全ての人間が何かと戦っているはずだ。戦うことで人は成長するようにできているとしか考えられない。競うことが生命を進化させているといってもいい。弱者は滅び、勝者の遺伝子が受け継がれ、特殊な形質が一般化していく。その繰り返しが生命の歴史でもある。戦いの結果生まれてくるものは美しいものなのだ。たとえ、それが戦争でも成り立つのかと言われると苦しいが、きっとそうに違いない。でも、あまりにも犠牲が多いように主観的には感じるから、戦争に賛成する感情にはどうしても至らない。が、結局、戦争とセックスは生命が続く限りなくならないのかもしれない。つまり、それが「生」の代名詞なのだから。前者がこの世からなくなったとき、人間は生命体として、相当な進化を遂げたことを意味する。それは、生命という定義が根本から覆るか、生命の進化が止まるときなのかもしれない。その時代を生きる人間の心情は一体どのようになるのだろう。今はそこまで想像力がはたらかないが、想像してみる価値は十分にある。

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2006年01月13日

人生ゲーム

物事を冷静に確率論的に考えることは、トータルで考えると最終的には良い結果をもたらすように思う。常に自分が一番成長できるためにはどうしたらよいかを模索し、いろいろな可能性を視野に入れて考える習慣をつけるべきだ。一方、自分に流れがある時には、ここぞという賭けをすることも大切。そのタイミングを見計らうために、普段から自分のアンテナを敏感にしていなければいけない。賭けは人生を設計するための大事な要素である。自分の生き方を大きく変えるためには、たまには大博打をしなくてはいけないわけだ。その機を逃さないように、ちょっとした周囲の変化を常に察知し、小刻みな判断を下している。時には、自分を守るために一歩引いて観察を続けたり、あえて勝負をしないようにすることもある。それはやっぱり全体としてうまくいくかどうかを耽々と見つめているからなのである。人生ゲームとは誰が考えたのだろう、まさしく、人生そのものがゲームそのものだと痛感している昨今である。どこまで、そのゲームを楽しめるかが生きている充実感に直接つながってくるのだと思う。

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2006年01月12日

客観的快楽

いま自分が与えられている環境の中で、自分の能力を最大限に引き出すために必要なのは、やっぱり「楽しむ」ことが前提となるだろう。が、楽しければ何でもいいというわけではない。言葉を付け足すなら、その楽しんだ結果生まれてくるものに、自分が納得のいく形で評価を与えることができれば、誰にとっても十分価値のある素晴らしいものになりえるということだ。その自己評価をどれだけ厳しくすることができるかが、加減の難しいところなのだろう。自分が出力したものを客観的に評価するというのは、摩訶不思議なほど難易度が高い。録音した自分の声をどれだけ平常心で聞いていられるかということを想像すると、心がドキマギしてしまって仕方がないはずだ。それほど、自らを客観視する心というのは強いエネルギーを必要とすることになる。

自分のやったことに目を瞑りたくなるのは人間の深層心理なのかもしれない。しかし、そこを打開できた人間が、この社会を強く突き動かしてくれる。どんなことでもいい、自分の行動を見つめなおすことから始めよう。そこには羞恥心のような複雑な感情も混ざりこむだろう。時には、自分の地位のことも考えてしまうものだ。しかし、自分自身を正直に評価できるようになれば、韓国の捏造事件のようなものは生まれやしなかっただろう。「なんでもやればいいんだ、とにかくやればいいんだ」という感情は、良さそうに見える時もあるが、実は着地点がないときが多い。やらないよりかは、何かをやった方がましなのは、確かかもしれないが、最終的に生産されるものを他人のフリをして眺めるべきなのだ。そこまでの過程を全てひっくるめて、自分が楽しめるものを手に入れることができたとき、その人は無限の創造性を発揮できるようになるのかもしれない。そう簡単にできることではないのだが、自分はそういう人間に憧れるし、やっぱりそういう人間になりたい。今は自分の未熟さに呆れかえっている。さらなる修行を積まねばならない。

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2006年01月11日

過ちは繰り返す

あ~、行かぬと誓ったのに。僕の意志はなんと弱いのでしょうか。今日、先行予約が始まった木村カエラのライブ「Circle」のチケットを買ってしまった…。インターネットでの購入だったのだけれど、ビジー状態が続き、チケットの申し込み画面に行くまで1時間くらいかかった。予約の確認が取れたのはついさっきであるが、これくらいなら楽な方なんだろう。複数枚買って、オークションで売ろうと思ったが、バカバカしいのでやめた。そういう奴がいるから、本当に行きたい人がチケットを取れなくなるのだ。とにかく、4月のライブを楽しみにいろいろ頑張ろうと思う(以前痛い目にあっていることを忘れている)。ちなみに「Circle」という新曲がKitkatと一緒に販売されるようで、ダブルでおいしい感触だ。

【お申込内容】
木村カエラ(東京)
2006/04/23 18:00 開演
Zepp Tokyo

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2006年01月10日

ローカルを狙え

今週から「サクサク」の放送が再開。年末年始で2週間も間が開いていたから、待ちに待っていましたという感が強い。自分でもなんでこんなにこの番組にはまっているのか不思議であるが、北海道テレビの「水曜どうでしょう」にはまる感覚と同じような気がする。過去には「水曜どうでしょう」が「サクサク」に乱入してきたこともあるようだ。地方ローカルテレビ局の人気番組同士ということで、切磋琢磨しているのでしょうか。

ローカルネタというのは、その土地の人にとっては強力な作用があって、熱狂的なファンを生み出す原動力になる。野球やサッカーだって、地元のチームを応援するのが自然なように、その土地を大々的にピックアップしてくれているのは誰にだって嬉しいことなのだ。「サクサク」の原動力は、何と言っても神奈川全地域の歌を作ってしまったことにあるだろう。いまや、それをはみ出して日本全国のご当地ソングを作ってしまっている訳だから、人気も全国区になりつつある。ついにはそのオリジナルソングが100曲を超えてしまったようで、今週はそのリクエスト週間という形で始まった。みんなで歌える歌の威力のすごさにただただ脱帽。人間の愛着感を素直に音楽で表現した素晴らしい番組である。人間はやっぱり普段身近に感じているものを好きになるのです。でも、酸素のように、あまりに身近すぎるものには、愛着が湧かないないわけで、そこを打破する方法を僕は考えなくてはならない。

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2006年01月09日

創造的な薬剤師

薬学部が乱立している。それだけ薬学に人気があるのだろうか。そんな異変に気が付いたのは、去年の今頃だったように思う。日本薬科大学が見開き2面で新聞広告を掲載していたからだ。今年も同じようなカラー広告が載っていて、その違和感をぶり返した。そして、今年は神奈川県に横浜薬科大学が創立し、新聞で募集を呼びかけていた。しかも、学長はノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈である。

なぜ、彼が薬科大学の学長を引き受けたのだろうか。自分としては驚きを隠せなかったが、今後の科学の発展は生命科学が象徴的になるであろうという考えからきているのかもしれない。しかし、専門教育に彼が携わることはできないだろうから、彼の精神を受け継いでくれる人材を育て上げることに目標をおくことになる。日本人のノーベル賞受賞者の中で最も人格的に偉人だと思うのは確かに彼である。講演等で日本の科学の未来を憂いているし、教育にも積極的な発言をしている。たとえ大学の経営者側がネームバリューを利用して彼を学長に祀り上げたのだとしても、彼には学生に伝えたかった熱い想いがあったに違いない。

きっと、それは創造性に他ならないはずだ。創造的な医療の担い手が薬剤師から生まれることを少なからず望んでいるだろう。彼が医療現場のことをどれだけ把握しているのかは分からないが、医療体制は未だ完全に医師を筆頭とした縦社会である。医者が変わらなければ、医療の体質は変わらないと言えるのが現状だ。となると、薬剤師や看護士は医師の頭ごなしな命令を聞くことが仕事となり、医者の手足として働くだけの存在になってしまうのだ。もちろん、医師の間違えを訂正することはできる、しかし、医師の治療方針に口出しすることは基本的にできないのである。そこに薬剤師が踏み込むことが少しでもできるようになることを願って、江崎さんが医薬の創造性を問い続けることに意味があるはずだ。

そのような理念で、新しい薬科大学をつくるのなら、そこでの教育は「病態の分かる薬剤師」を育成することに重点を置いて欲しい。薬学教育は実はかなり多彩である。物理も化学も生物も基本的には全て分かっていなければならず、薬学はそれらを土台とした応用学問なのである。このように守備範囲が広いがゆえに、教育の仕方によっては偏った人材となってしまい、基礎を重視する国立大学などでは、薬剤師の免許は持っていても患者のことは全く分からない学生が大量に生まれてしまうのである。基礎研究を行う者であれば、それはそれでいい訳であるが、全ての大学がそうなることを目指さないだろうし、そうなるべきでない。臨床に関わる人材を育てるのであれば、やはり患者のことを理解できる能力を養う必要があるのだ。その最初の切り札が「病態の理解できる薬剤師」であると思う。

多くの私立大学が国家試験にどれだけ合格させることができるかに重点を置いている中、江崎さんが学長になるのであれば、そのような本質的な薬剤師の育成に力を注いで欲しいと願う。実際にどれだけの成果が生まれるのかは未知数であるが、江崎さんの名前だけを借りた大学に成り下がらないよう、教育的な配慮が行われることに期待している。実学としての薬学の発展性は、まだかなりあるのだから…。

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2006年01月07日

悪魔の悪戯

宇宙の終わりは記述できるのか。宇宙全体を一つの孤立系と考えたときに、そのエントロピーは増大を続ける。エントロピーが無限に大きくなり、熱の移動が完全に無くなった時、この宇宙は滅びることになるのだろうか。少なくとも僕たちが観測できうる範囲内での宇宙は活動を停止してしまうということになるのだろうか。たとえ僕たちが住む宇宙のほかに別の宇宙があったとしても、それら宇宙全体を一つの孤立系とみなせば、結局すべての宇宙は熱死してしまうことになる。自分としてはあまり納得の行かない結論でむずがゆい。何かのきっかけで再び別の宇宙が誕生してもいいのではないかと思えてしまうのだ。

こう考えると、マクスウェルの悪魔は僕にとっては悪魔ではなく、天使のような存在に思える。この悪魔がいれば、局所的にエントロピーが下がり、宇宙を生み出すことができるように感じるからだ。悪魔が持ち続けることができる記憶がたとえ有限であったとしても、その記憶力が有効な範囲ではエントロピーが下がってもいい。その有限性がどれほど自然界に影響を与えるのかは分からないけれども、その局所性が僕らの生命活動を支えているのは確かな事実だ。この小悪魔がとてつもなく低い可能性で、エントロピーを一時的に押し下げることが、宇宙の始まりにつながってるんじゃないかと想いを馳せてしまうのである。生命の誕生もこの悪魔のいたずらの成し得た結果だとすると、宇宙の創造主は神ではなく悪魔ということになる。これはこれでかなり面白い。

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2006年01月06日

学生モニター終了

竹内さんが月に一回、朝日カルチャーセンターでやっていた「海外科学雑誌で読む 最新サイエンス情報」の学生モニター期間が昨年末で終了。タダで受講することができた代わりにレポートを提出しなくてはいけないので、その旨を下記に記す。でも講座自体は、今年の3月まであと3回あります。


最新の科学情報が新聞の紙面を毎日のように賑わすことはない。しかし、現在世界中で発行されている専門的な英字科学雑誌の数は数万にも上り、多くの研究論文が刻々とこの世に生まれてきている。その中でも、科学雑誌の権威とされている英国発ネイチャー誌と米国発サイエンス誌は、目覚しい科学的発見を週間で研究者たちの処へ届けている。本講座「海外科学雑誌で読む 最新サイエンス情報」は、科学作家である竹内薫氏がこれらの雑誌を基に、その内容を詳しく解説し、その理解を優しく促し、深い議論を交わすことを目指している。

講座内で選択する科学記事は多岐にわたる。講師は物理学を専門としているが、生物学的な内容から哲学的な考察に至るまで、科学誌を縦横無尽に渡り歩く。また、幼少時にアメリカで過ごし、博士号をカナダの大学で取得しているため、英語には非常に堪能であり、細かいところまで行き届いた英文の解釈を提供してくれる。記事の内容はややもすると難しい表現に陥りがちだが、講師の確かな力量で、受講生の理解をきっちり補ってくれるのだ。新聞の科学欄では読めないような精確で詳しい科学情報が、目の前で次々と再現されていくことにおびただしい興奮さえ覚えた。

一般の大学のセミナーでは専門分野の論文のみを扱い、他分野の知識を多くの人と議論する形で吸収できる機会はそう多くない。本講師のような幅広い知識を持った方から、巨視的な科学観を受け継ぐことは、今後の科学の発展にも重要な要素となってくるであろう。カルチャーセンターがベテランとの架け橋となり、多くの大学生や大学院生に多様性を吹き込むことで、若手の科学観が柔軟なものになることを期待している。

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2006年01月05日

科学は心を豊かにできるのか

正月に得たインスピレーションを今年の抱負にしようと思う。今年の僕の活動の肝は、「心を《豊かにする》科学」である。これまで、僕が神経科学に従事してきたのには理由があって、一言で言えば、心脳問題を解く科学的キッカケを掴むことであった。その観念は常に心をどうしたら解明できるかという視点で物事を考えていたように思う。自分の精神活動はどこから生まれるのかという根源的な問いに対してストレートに真っ向勝負をしてきたわけだ。ここまで、いろいろと勉強してきたが(もちろんまだ勉強不足だが)、なんとも雲の掴むような話から脱出できそうもないという直感がはたらく。でも、そう簡単に諦めるわけにもいかないテーマであり、引き続き追い求めたい永遠の課題である。

「心」と「科学」がキーワードである。きっと、僕が生きている限り、このキーワードが頭から離れることはないのだろう。「心」を《知る》手段として「科学」を選んだわけだ。しかし、この関係性を少し変化させてみようと思うのが今年の試みである。そうすることで活動内容は劇的に変わるかもしれないが、キーワードは全く変わらないことが分かる。そう、冒頭に書いたように「心」を《豊かにする》ための手段として「科学」を捉えてみたらどうだろうか。

最終的に僕の言いたいことは、これまで述べてきたことと根本的に変わっていないのだが、キーワードをうまく活用できたことが自分にとっては大きいことだった。今後の自分の活動に何らかの一貫性をもたらしたかったのだ。自分は最終的には実験科学的な研究者に戻ってきたいのだが、一度離れたら戻って来れないかもしれないというリスクを恐れず、知の統合に自分の尽力を注いでみようと思う。

では、今年の僕の具体的な目標を以下に記す。研究者間の統一から市民への科学啓蒙のレベルまで、順を追って明記しようと思う。

1.神経生理学の理論的考察
 いまや生理学も分子生物学的な思考の導入により、物質の科学に支配されようとしている。本来、生理学は身体が生来持っている機能の関係性を記述する学問であった。もちろん、人体を構成する物質的基盤は、医学的研究を支えるのに最も必要な要素であろう。病気を治す薬も物質以外の何者でもない。しかし、誰もが心は物質ではないと信じている節がある。そして、これは正しいように思えるのだ。脳の神経細胞が構成するネットワークの関係性から、何か得体の知れないものが生まれているかのようだ。この関係性が記述されうるための理論的研究と、実際に生でデータを搾取する必要のある実験的研究の統一が自然と叫ばれることに疑問はないであろう。だが、まだお互いの研究者が交わす言語は統一されていない状況下だ。私は、双方の研究下地を理解することで、円滑で有意義な議論を推進し、新しい知の概念が創出するような環境を整えたい。もっぱら、専門的な理論・実験的研究論文の解説を軸として、互いのコミュニケーションに厚さが生まれることを期待する。

2.サイエンスインタプリターとして
 これらの専門的な議論から生まれてきた内容を題材として、面白い発見や議論を分かりやすい話に書き直す。これは今発刊しているメルマガを基本として、多くの人が読めるような環境に整備したいと思う。ホームページの内容もこれに準じて補強し、充実したものに仕上げていきたい。また、一般の人が参加できるようなセミナー的なものを主催して、最新の脳科学に興味がある人の好奇心を満たしていけるような活動も視野に入れている。

3.音楽にのせて
 最後に科学への接触頻度を向上させるための活動を精力的に行う。多くの人が「文学」と「科学」の汽水域に可能性を見出しているが、僕は「音楽」と「科学」を接点に活動するつもりだ。「音楽」の与える社会的影響力は身をもって感じている。これまで研究生活に入ってから、音楽活動は完全に休業状態であったが、今年から再開するということだ。ただ単に楽器を弾くという枠に収まらずに、曲を積極的に作ってアピールしていこうと思う。もちろん、楽曲としていいものにならなければ、社会にインパクトを与えることができないことは重々承知している。音楽で科学を伝えることの難しさは想像に難くないが、挑戦してみようと心に誓った。いまのところ、多くの人から力を借りることができれば、うまくいく可能性はあると信じている。

多くの人が科学に触れ、これまでに感じたこともないような感覚を覚えたり、考えたこともない思考に到達することができることで、社会が少しでもいいように動いてくれれば本望である。科学は冷たい感じがするという先入観を取っ払い、科学を少しでも垣間見ることで、「心」が《豊かになる》ような活動を展開していく予定だ。みなさん、応援してください!よろしくお願いします!!

投稿者 はるお : 03:57 | コメント (105) | トラックバック