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2006年06月29日
科学の歴史
現在科学哲学史を勉強中。科学をやっているのに科学の歴史を知らないなんて絶対おかしいと思ったからです。これまで、どういう立場で人は科学というものを見てきたのか、それを垣間見ることで、これからの科学のあり方も分かってくるような気がするのです。どうして、学校では科学史を教えないのでしょうか。日本や世界の歴史の中の一分野(文化史)として、大きく取り上げるべきなのに、それができない。日本の科学の発展が望めないのも容易に想像つきます。完全に日本は「技術」に賭けていると言ってもいいのではないでしょうか。日本が目指すは科学「技術」立国、技術という言葉は絶対に消えないことでしょう。科学と「技術」の比率は1:9? いや、それより悪いかもしれません。
科学哲学史を勉強した後は、それをまとめて、メルマガにうまく活用したいと構想を練っています。メルマガを出すとしたら、大学から出すことになると思うのですが、まだ先生方と協議中です。果たしてうまくいくでしょうか。自分がそれに耐えられるかも問題なのですが…。
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2006年06月27日
Graffiti
友達のライブに行ってきました。新宿のライブハウスルイードK4という所です。中々、こういう機会がないとライブハウスなどには行きませんが、とてもこじんまりとして、お客さんも少なく(20人位)、意外に落ち着いてライブを聞くことができました。激しいロックバンドがあったら、随分と様相は違っていたかもしれません。ノンジャンルライブだったのですが、それでも趣向の似た人たちが集まっているのかもしれません。
彼とは、SONARというDAWソフトの講習会に参加した時に友達になりました(2月4日の日記)。彼の曲にボーカルの人が詞を付けて歌ったというわけです。ボーカルの人は昔からユニットを組んでいたというわけではなく、バンドメンバー募集サイト「メンボネット」のようなところで見つけてきたようで、今日一日の即席ユニットです。でも、彼が作った曲をライブでやることに意義あるような気がするので、とにかくは、第一ステップを無事踏み込んでいった感じがします。今後は作曲に専念するそうで、しばらくライブはしないということでした。これからの活躍が楽しみです。
いや~、今日は実にいい一日でした。でも、帰りは本郷によって、仕事もしてきました。結局終電帰りです…とほほ。
あっ、彼のホームページはこちらです。どうぞ、ご訪問ください。
右側が友達です。
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2006年06月26日
週間カエラ
木村カエラが出ているCMを見ました。東芝のGIGABEATのCMで、今週発売の新曲、「Magic Music」にのせて、車内吊り広告のカエラが歌を歌っているというものです。しかも、6月23日からGIGABEATのホームページで「週間カエラ」を配信するというではありませんか。僕はカエラの大ファンですから、「お~、すげ~」と大感激し、早速、そのHPにアクセス。久しぶりにこんなにたくさんのカエラを見ました、とても幸せです。3月にサクサクを見納めて以来ですから、結構嬉しいものですね。これからは毎週チェックです。
そして、そのカエラちゃん、なんとサクサクにゲストとして来週登場するそうです。かなり早いカムバックで驚きです。見たい、見たい!、けど、今住んでいるところではtvkは見れないのです。でも、多分、意地でも見ると思います、なんとかします。彼女の成長を見ていてこんなに楽しいことはありません。きっと、全国のカエラファンはみんなそんな思いで、彼女を見守っているような気がします。
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2006年06月25日
証明できるか分からないから面白い
直感的に「真」であるのに科学的に証明できないことがあります。証明できないというのは、それが「真」であるのか、「偽」であるのかを計算によって一義的に決定することができないということです。論理的な考察は万能ではなく、論理でこの世界の全てを明らかにすることが原理的に不可能であることをゲーデルは明らかにしました「不完全性定理」(1931年)。これを知った多くの科学者は、きっと大きく絶望したことでしょう。「科学では分からないことがある」と何となく信じている人がいると思いますが、それは大昔にしっかりと証明されてしまっているのです。
それでも、科学の営みが終わることはありません。今現在も多くの科学者がいて、多くの研究がなされています。それは、やはり、今の研究結果が僕らの未来に有益だからだと思います。基礎研究は「役に立たない」、と言いますが、それは語弊であり、「役に立つか分からない」というのが現実的な答えでしょう。基礎研究というのは、自分が興味を持っている問題に対して、どのようにしたら解答が得られるかを必死に考えているだけです。それでも、これまでに反証が得られていないものを基盤にして、新しい事を考えるわけですから、そこから得られる結果もできる限り、しっかり証明されたものが出てくるはずです。ならば、それ以後、その研究結果というものは、公理がひっくり返らない限り、有益な情報を与えてくれることになります。たとえ、今、基礎研究の結果に興味がなくたって、その結果は正しいのであるから、いつかは役立つかもしれないわけです。そう考えると、今の科学は、人間の知性を手助けするものと位置づけて構わない、いや、それ以外にはないのではないかと思います。自分が知りたいものが科学では解明できないと知れば、科学は生きるための知恵の一つに過ぎないと腑に落ちると思うのです。
「意識」や「心」の科学的研究は、人類史上最大の挑戦と考えていいでしょう。僕らは他人の「意識」を証明することが原理的にできません。デカルトも方法的懐疑により「我思う、故に我あり」と結論を出し、最終的に、この世の全てのことを疑っても、それを疑っている自分の存在が否定できないことを知りました。それは逆に、自分に「意識」があるということを自分でしか証明できないことを意味します。自分でしか知ることができない自「意識」を一般法則として証明することは一体できるのでしょうか。自分に意識があることは「真」です。しかし、意識というシステムの起源を証明することができるのかは非常に難しいのです。もしかしたら、解明できるかもしれませんが、もしかしたら、解明できないことが明らかになるかもしれません。今はそれが証明できないから面白いのです。意識の「不完全性定理」が示されたら、絶望する科学者もいるかもしれません。でも、だからといって、心の中にある何かが失われるものではないと思うし、科学が衰退することもないでしょう。科学の面白さは、いつの時代も変わらないのだと思います。
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2006年06月23日
眠りたくはないが
今日はブラジル戦のようです、が、キックオフが28時。つまり、朝の4時に始まるわけです。見たい、見たい!でも、やめておきます、明日も仕事ですから。寝不足の頭で論文がかけるほどではないのです。最近は無理がききませんからね、身体の調子は仕事の質に直結します。ここは明日の朝のニュースで確認することで我慢しましょう。決勝トーナメント進出が決まっていたら、泣いているかもしれません。それこそ、仕事にならないので困りますが…。
ここに来て、ようやく職員証が届きました。3ヶ月もかかるものなんでしょうかね~、これで身分を証明することができるようになりました。アナン事務総長の講演会で自分が学内関係者であることを示すのに苦労しましたから…。前にも書きましたが、職員証がクレジットカードとして使えます。いや、クレジットカードに職員証がついているのかな、これは…。裏が職員証ですから。使った分の一部が大学の収入になるようです。これから、じゃんじゃんこのカードを使って、大学に貢献したいと思います(ほ、本心ですよ、もちろん…)。
投稿者 はるお : 01:44 | コメント (115) | トラックバック
2006年06月22日
添削のしすぎ
僕が通っている柏キャンパスの総合研究棟のエレベーターは「シンドラー」社製です。最近、注意を促す貼り紙がエレベーターの内外にペタペタと。貼り紙には、こんな文言が書いてあります。「このエレベーターは、十分に確認してからご使用ください。」 う~む、確認すれば事故は防げるということですね、この貼り紙の論理は。僕の研究室は6階なので、階段で上り下りできる次元ですが、それでも、最上階ですからエレベーターを使いたくなります。これもニューロエコノミクスで説明できるのでしょうか…。もし、これが50階建てのビルなら6階くらい階段で昇るでしょう。人間の損得勘定はあまり理にかなっていません。
論文の再投稿も大詰めです。今週中には出せそうな勢いです。前の研究室の教授とやり取りしているのですが、彼は非常に丁寧に論文を添削してくれます。そして、勢いあまって、僕の書いた言葉が残らないほどに文章が変わってしまうのです。ここまでくると、良いことなのかどうか分からなくなってきます。これは僕の論文なのだろうか???っと疑問に思ってしまうわけです。いや、明らかに教授の論文ですね、これは。教授の研究室でやった仕事だから、まぁ、それでいいのですが…、でも少し寂しいです。
新しい研究室では、自分で立ち上げた研究テーマを自分を中心にして進めていきます。これなら、自分の思ったことを論文に反映できそうです。やはり、学生の時とは立場が違いますね。やる気も出ます、頑張ろっと。
投稿者 はるお : 00:14 | コメント (103) | トラックバック
2006年06月21日
背水に落ちる
僕は背水の陣が好きです。いや、間違えました。好きではないけど、追い込まれないと仕事をしないタイプです。今月中に再投稿しなければならない論文を、いまごろゼーゼー言って書いています。最終的に何とかなることが多いですが、出来上がった質が高いかと聞かれれば、自分で満足がいっているわけではありません。たいていは、締め切りだから最後に仕方なく提出しているような感じです。でも、満足しているまで待っていたら、一生何も完成しないような気がするのでいいのかもしれませんが。でも、もう少し余裕を持って仕事をするべきだとは思っています。でも、なかなかできない、一つの病気なのかもしれません。
まれに、後ろにある川に落ちることもあります。このときは自己嫌悪丸出しですね。なんで、もっと早く仕事を始めなかったのだろうと不甲斐なく思います。最後に徹夜して追い込みに追い込んだけれど、結局ダメでした、っとなると自分のダメさ加減に愛想がついてしまうのです。どんな仕事でも、着実に一歩ずつ歩んで成果を出していきたいものです。いい仕事というのは一朝一夕ではできないということが頭では分かっているのだけれど、なかなか身体というのは動かないものですね。もっと仕事を愛していこうと思います(いや、仕事は好きですよ)。そして、ちゃんと計画も立てて…。
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2006年06月20日
文章を見つめる
不用意に人を傷つけてしまいました。僕の過去の文章を読んだためです。文章の攻撃力の強さに圧倒されてしまいました。そして、人が読む文章には、最大限の配慮を持って接しなければならない、そう改めて痛感した日でもありました。こんなこと、分かっていたつもりだったのですが、全然分かっていなかったようです。猛反省しています。
日記といえども、やはり他人がリアルタイムで読むとなると、自分の事情だけを考えて書くわけにはいきません。だらだら思ったことを書くのも日記の一つの形態ですが、実名を出して文章を公開しているわけですから、それなりの責任をその文章に持たせなければいけません。その配慮に少し欠けていたと言わざるを得ないでしょう。
人のことを考えて日記を書くなんて、それはもう日記の域を超えているのかもしれません。しっかりと文芸作品という意識を持って、筆を持たなければいけない。僕の書いた文章など、文芸でもなんでもないのですが、やはり公開するということは読者がいることを念頭において、丁寧に言葉を扱っていかなければならないように思うのです。そういう意識がないと、僕のやっていることは、2ちゃんねるでやっていることと同程度のものにしかならないのではないでしょうか。
もちろん、自分の主義主張は通します。自分の意思さえ曲げてしまっては、それは僕が文章を書く意味さえ失ってしまいます。自分が感じたことは、しっかり表出する。しかし、できる限りトゲは取ろうと思います。譲れない主張もあるでしょう、それでも、書き方というものがあるはずです。そのような意識を持って、真摯に自分の書く文章というものを見つめていきたいと思います。
Web上で言葉が乱暴になる理由は、話す相手が見えないことである、と言われることがあります。確かに、独り言なら、他人の気持ちなどを考えずに、暴言を吐くこともできるでしょう。誰も聞いていないのだから、誰も傷つかない、それは当たり前のことです。でも、人は愚痴らずにはいられない、親しい友達には多くの愚痴を聞いてもらうことはよくあることです。それは、とても自然で、精神衛生を保つためには、最もよい方法のように思うのです。
ところが、それを独り言だと思って、ネットで全国に公開してしまうことは公害以外の何者でもない。W杯の結果をめぐるネット掲示板を見ましたが、読んでいても気持ち悪くなるだけです。それなのに、何万という投稿が掲載されているのを見ると、人間は基本的に自分の中の毒を出したいという欲求に満たされていることが分かります。愚痴を書くことがストレスの発散にはなると思うのですが、それを読むことでストレスが発散されることはあるのでしょうか。結局、憎悪感が膨らんでいくだけのように思います。
言葉は生き物です。取り扱いには細心の注意を払わないといけません。そして、この生き物を最大限大切にしようと、自分のペットをかわいがるように愛していくべきでしょう。なかなか自分のいうことを聞いてくれませんが、一人歩きしてしまう文章をいつまでも見守り続けたいものです。最後まで、自分の文章を見つめる勇気が失われてはなりません。
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2006年06月17日
データでお遊び
今日のセミナーは参った。あのようなシミュレーションは意味あるの?と疑問を投げかけたい論文。だから理論一辺倒の人は微妙なんだよ、あれで実験結果と合うと主張するのがよく分からない。内容は、Notchシグナルの側方抑制をモデル化したもの。実際の定性的な Notch Pathway は実験科学的によく分かっている。そこに定量性を組み込んで整合する分子パラメーターをはじき出してみましたというのだ。そもそも、前提となっている Notchシグナルの強さが周囲の細胞の数で決まるとするところから怪しい。確かに、周りにある細胞が多ければ、強いシグナルが細胞内に伝わるような直感は受けるけど、結局はNotch受容体の細胞膜上密度が一番効いてくるんじゃないのか。そのモデルで、実験結果と同じような振る舞いを示すと言われても、それを信じる根拠が信憑性に乏しすぎやしないか(っていうかやはり前提がおかしい)。こんなんじゃ、なにも分かったことにならないよ、これこそお遊び研究だ。側方抑制を最終的に実現すれば、一体何でもいいのか。まあ、完全に否定はできないので、仮説としては残るが、これが極めてあやしい仮説のように思っているのは発表者本人だったかもしれない。
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2006年06月16日
住まいと恋人と
いい物件が見つかった、南流山で。いろいろ聞いてみるもんだな、ホント。今より少し値が張るけど、駅前徒歩2分、隣にはスーパーもある。生活騒音対策のため、今回は鉄筋コンクリート(RC造)にターゲットを絞った。しかも、追い焚き給湯がついている物件は中々無いのだが、ここはバッチリなのだ。そして、CATVとBフレッツも導入済みらしい、メディア関係もこんなに好条件のものだとは思わなかった。もちろん、すかさず手をつけてきた。内見は来週の水曜日、仕事帰りに立ち寄る予定だ。
物件探しは恋人探しに似ているかもしれない。自分の好みや希望に合わせて、その条件にあった物件(恋人)を探し回る。もちろん、そう簡単には自分に合ったものは見つからない。いろんなところへ話を持ちかけ、いい物件と出会える確率を上げていき、最後にこれは!というものを獲得することに至る。しかも、決めたはいいが、本当にそれが自分と合っているのか分からない。あとは住んでみるしかない訳だが、それでやっぱり自分に合っていなければ、次を探すという流れである。自分が住む家となれば毎日の付き合いだ、恋人探しと共通点があっても何の不思議ではない。
けど、不動産と人間を一緒にしてはいけない。人間には感情がある、嫌だからといって、そう簡単に次に乗り換えるなんてことはできないだろう。今や乗り捨ての恋人もいる時代なのかもしれないが、別れるときの悲しみは、心に大きな傷跡を残す。そんな悲しみは最小限に抑えたいの人間の性(さが)だろう。さらに、実際は感情だけの損失にとどまらないはずだ。そう思うと、人生の伴侶を決める時は一大決心である。「本当にこの人でいいのか?」賃貸物件を決める時の決断力とは比にならない。実は、この瞬間が人生最大の賭けなのかもしれない。自分の人生を、全くの他人に BET するこの瞬間こそが、正常な判断力と確かな信頼関係が必要になる。それでも、やはり一緒になってみないと分からないところは多い。
現状に不満でも、それが決定的なことでなければ、住まいを変えることも無い。僕は今回静かな環境が得られないことが引っ越したい症候群を発症させてしまったわけだが、人によってはこれくらいの騒音なんて何とも思わないかもしれない。それは、もう個人差としか言いようが無い。住まいとの相性なわけだ。多少の不満なら僕でも我慢できるはずなのだから。決定的な決裂要因がないから別れない夫婦というのはたくさんいるかもしれない。でも、それでも長く付き合えば、どんなものにも変えられない愛着が湧いてくるだろう。明らかなNGがなければ、なんとかうまくいく、それが住まいと夫婦の裏の共通点なのではないかとフッと思ったりした。
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2006年06月14日
身近な異文化
軽く物件を問い合わせてみたが、全然自分の気に入るものがない。さすが南流山、人気地区なだけはある。もうしばらく様子を見だな、これからはちょくちょくいい物件が入っていないかチェックしていこう。椅子取りゲームみたいでいやだけど、仕方がない。椅子取りゲーム嫌いだったんだよね、なんでそんなに無茶してまで椅子を取ろうとするの?って思ってたからな。いやな子供だ。命令ゲームも嫌いだったな。
今日も武蔵野線が遅れていたらしい。浦和辺りの駅線路内に人が立ち入ったためだという。なんで日本人は人の迷惑も考えないで、線路に下りるんだと英語の先生は怒っていた。ニューヨークではこんなことは絶対にない、日本人はアホ(stupid)だと嘆いているのだ。まぁ、あんたらには理解できないだろうよ、周りの事を全く考えることができなくなってしまう心境というものを。これは理屈では説明がつかないのだ、日本の文化の一部と考えてもよい。その繊細な日本人の心の動きが理解できるようになったら、きっと stupid だなんて言わなくなるだろう。僕が西洋人のある部分を理解できないのと基本的には同じであるはずなのだ。異文化理解って難しいね。女の子の気持ちを理解するのと同じくらい難しいよ…(いや、それに比べたら大したことないか)。
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2006年06月13日
切れた10分
お~!!最後一気に畳み掛けられた。く、くやしい。。なにか、ふ~と切れていくものがあったな。集中力を保ち続けるって、あの現場にいたら相当難しいだろうが、あそこまで素っ飛んでしまうとは。最後の10分間、一体何倍速で見たんだろうっていう感じ…。時間の流れ方が違いすぎるよ。
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2006年06月12日
引っ越したい症候群
やはりどうも隣の住人がうるさくて仕方がない。多分、子供がいるのだ、しかも、とても活発な時期の子が。家中飛び回っているのではないのかと思えるほど、振動が毎日伝わってくる。う~ん、子供じゃ微妙に文句が言えない。いや、それでもちゃんと注意すべきか、外で走り回ってくれと。自分が落ち着いて家に入れないと、それなりにストレスを感じるわけだし…。これは、一般的レベルの生活騒音なのだろうか、集合住宅は難しいな。
なんか、もう引越しがしたい。周りはお店が多く便利なんだけど、あまり居心地がよくないのだ。騒音のこともあるけど、なぜかここに住みたいと思えるように感じないし。やはり、南流山の方に住みたいと純粋に思える。もう少し我慢したら、本気で引っ越したいのだが、南流山にいい物件があるかが問題だ。つくばエクスプレスの開通で、南流山周辺の物件は、ほぼ満室状態。この時期に空いている部屋が見つかるのか非常に懐疑的だ。それでも、もう一度不動産屋さんを当たってみることにするか。何か有益な情報が得られるかもしれないしな。
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2006年06月11日
トロフィーが標すもの
今週は、インターネットでやけ買いみたいな事をしていた。その商品がこの週末にドドッと押し寄せてきてビックリしてしまった。とにかく、PC関連のものが多い。新しいPCを作ろうと思って、CPU(Pen4 3G)、CPUクーラー、メモリー(1G)、マザーボード、電源、DVDドライブなどのPCパーツがどしどし届く。これでも合計5万円程度だったから、安いもので、一応冷静に品定めをして買っていたようだ。さて、一通り揃ったので明日にでも組み立ててみるか。それだけで一日が終わってしまいそう、いや、確実に丸一日かかってしまう。ちなみに、明日はアコースティックギターが届く予定…。自分の思いを届けるためのもう一つの武器だ。
ここのところ、一日一食しか食べていなかった。昨日の飲み会の時も空きっ腹に飲むのはどうかと思ったけれど、飲みたい気分だったので飲んだ。前日に食べたパスタ以来の飲み食いだったが、胃の事を考えて食事をする心の余裕もなかったし。そうそう、そのパスタを食べに行ったのは、竹内薫コミュで知り合った友達が心配してくれて、仕事帰りに本郷へ寄ってきてくれたから。それまでに、まだ一回しか会ったことがない子だったのに、ホントに救われたよな~。mixiってこういう風に活用するんだな。マンドリンの友達には言いにくいことだったので、彼女の行為には心から深謝…。その後、徹夜で実験して始発で家路についた。とにかく、今は論文を書き上げることが先決。
W杯、イングランド vs パラグアイ。前半だけ見て飽きてしまった。優勝候補の一角といわれているイングランドであるが、昨日のドイツと比べると気迫が全く違うので白けてしまったのだ。僕は普段からサッカーを見るような人じゃないけど、ワールドカップは別だろう。そこにはW杯に魂をかける選手たちの生き様が見える。そして、選手にしか分からないW杯の重みを彼らのプレーを見て感じ取り、僕らはサッカーというものに熱狂する。自分の国を応援するのも良しだが、サッカー人生を賭けて己の全てをぶつけている姿に、人は見入ってしまうのだ。W杯にしかない特別な"何か"、選手自体も何か具体的なものが見えているわけでないと思うが、やはりあのトロフィーに象徴される"何か"を掴もうとしているのだ。そんな気迫溢れるプレーは試合が進めば進むほどに加速していくだろう。初戦は様子見として慎重に戦略を組むのも理解はできる。決勝トーナメントでみせる彼らの魂の叫びを僕は必死に受け取りたいと思う。
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2006年06月10日
それでも科学を続ける理由
いつまでも抑うつ症状のままではしょうがない。とにかく、溜まっているものを書き散らすとするか。男は常に孤独な生き物なのさ。そんな孤高な姿についてきてくれる人がいれば、それでいい。いなければ、それもいい。とにかく、自分は自分の生き様を晒(さら)すだけ、自分ができることを一級品に仕上げるだけ、そして、身の周りのあらゆる自然を愛していくだけである。僕ができることは数少ないけれど、僕にしかできないことがある。自分を突き動かすものに身体を委ねながら、この世の逆行に立ち向かっていこう。いま幸せじゃなくてもいい、死ぬ時に幸せと思えるなら。終わりがあるから、いま頑張れる。自分が生命体であることを心から喜びに思う。死の恐怖に震える暇さえ、もう僕にはないのだ。
人は「意外性」に感動する癖がある。たとえば、小説の中にある予想外の展開に、身を乗り出すように没頭する。人の無限の想像力が、僕らの想像もしえない現象を生み出し、人はそれに魅せられる。予想ができない展開に不安を抱えると同時に、想像を絶する事件が起きないかと期待している。そして、期待を裏切られると、いい意味でも悪い意味でも人の心は揺れ動く。感情の起伏が生まれる。
結局、この起伏の振幅が人生の激動そのものを指しているのだ。そう、フィクションじゃない現実で起こる出来事も小説の中で起こることと同じ。僕らは常に先の見えない将来に怯えながら、自分では操作ができない事実に心を振り回される。小説は意図的に心を振り回そうとしているが、自分の周りで起きている現象は意図も何もない。本当の意味で、自分の想像を超えた信じられないイベントが起こるのである。小説は人生の縮図として描けるかもしれないが、現実は小説の衝撃度を超えている。
自分が生きている限り、今後もこの感情に振り回される。それは、負の面を持つものではなく、むしろ、振り回され続けろ。いや、自ら感情を振り回し続けろ。そりゃ、落ちるところまで落ちることもあるさ。死にたいと思うほど辛いことにも直面するさ。それでもいいのだ。それでも、とにかく生きるのだ。本当に辛い人生を全うした時、本当に幸せな最期を手に入れることができるのだ。人の幸福度なんて比較することはできないけれど、何かを信じて、何かに立ち向かうことが、人の心を満足させてくれるのだ。
心を振り回す仕事などそう簡単にできるものではないが、それを目的としている職業がアーティストなのではないか。実際にアーティストはそれを目的としていないかもしれない、自分がいいものだと思うものを創っているだけかもしれない。でも、現在でもなお僕らに感動を与え続けているアーティストは、自身を突き動かすだけでなく、他をも振り回そうとしていたのではないか。他に伝えたいものがあって、創り上げた作品なのではないか。世界観を覆すためには、自己完結じゃ済まなくて、外に発するために膨大なエネルギーを消費しているはずだ。まさに命を削って作品を創り上げているのに決まっているのだ。科学者だって、本当の天才たちは、この大自然を全身で受け止めて、魂を込めてそれを弾き返してきたように映る。天才科学者達は、誰がどう見たって、アーティストとしか言いようがないではないか。
科学で人の心を揺るがす仕事がしたい。教育で人の心を揺るがす仕事がしたい。僕にそんなことができるかは分からないが、そういう風に思って仕事をするしかない。だが、自己満足の研究を超えなければ、科学で人を感動させることは極めて困難だ。科学を介して、社会に伝えたいメッセージがないと絶対ダメだ。僕が仕事を通して伝えたいメッセージを、しっかり研究結果としてアウトプットすること。今まで想像もできなかった世界観を科学という枠で提示できるようなアーティストに僕はなりたい。日常の中に埋もれた非日常性に気付いた時、人は静かに感動するのだ。現実は小説の衝撃度を超えている…、科学はそういう意味で、人の心を揺るがす最強の武器なのかもしれない。僕が小説家ではなく、科学をやる理由はこれに尽きるのだ。
P.S. W杯の開幕戦面白すぎる~!こりゃ、日本を全力で応援するよ!
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2006年06月06日
かっぱ
覚悟はしていたが、ついにこの日が来たか。結構早かったな、ショックだぜ、あはは。明日仕事いけるかな。昨日の不幸はこのショックを和らげるためにあったのか?
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2006年06月05日
MSのアホ
Windowなんて最低だ。ブログ用に書いていた原稿が固まって消えてしまったじゃないか。どうせ否定的なことしか書いていなかったから、神の思し召しなのかもしれないが…。もう一度書き直す気力が起きないので、また気が向いたら筆を取ることにします。
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2006年06月02日
実は…
どうも、まだ家の中が片付かない。引っ越してきてから1ヵ月半がたったが、実はまだダンボールがいくつか残っているのだ。必要か必要じゃないのかわからない物って、やっぱり捨ててしまったほうがいいのか。僕が必要なものって、実はそんなに多くなくて、かなり生活はスリムだ。というより、今は全然家事らしいことをしていない。必要最低限の、掃除と洗濯くらいなものである。学生の時は朝ごはんを作っていたのに、今は通勤中の車の中で、コンビニで買った惣菜パンを食べている。だって、時間がもったいないじゃないか、通勤時間も有意義に使いたい。
週末くらいは何か作ろうと思ったりしていたが、やらなくなると、とことんやらなくなってしまうものだ。料理することがすっごい楽しいというわけでもないから、そういう結果になってしまうわけで…。誰か食べてくれる人がいれば、なんか必死になっていろいろ考えて、作れるかも知れないけど、現実度が低いな。そういう意味で誰かうちに遊びに来てくれると嬉しい。お~、みんな遊びに来てくれ~(寂しがり屋ではないと思う…)。
結局のところ、人のためにと思わないと、なかなか行動できないってことだ。自分のためにできることって結構限られている。要するに自分に甘いってことだな、こんなんじゃダメなんだけど…。特に研究なんて人のためにやるものじゃないから、よっぽどゲテモノ好きな人種なのではないか。本音を言うと、実はそこまでゲテモノ好きではないんだよね、僕は。それでも、今の仕事は楽しいから、それほど自分のことを自分で理解していないように思われる。けど、仕事の優先順位はそんなに高くない、少なくとも「食う、寝る、遊ぶ」よりは下でしょう。「遊ぶ」に研究を無理やり入れているようなもので、「遊べない」研究は単なる苦痛以外の何者でもない。「遊び」は文化を生むのだ、それが基礎研究の根幹であると信じている。
投稿者 はるお : 02:10 | コメント (12) | トラックバック
2006年06月01日
メルマガの前途
今日メルマガを久しぶりにに発行した。配信頻度が全くと言っていいほど軌道に乗っていないので、読者には本当に申し訳ないと思っている。しかも、「学術統合化プロジェクト(ヒト)」としてもメルマガを発行しようという話が持ち上がっており、不安はさらに膨らむばかりだ。
メルマガの発行を定期的に行うのは結構な労力を要する。仕事の企画として持ち上がってはいるが、本当に実現するかは判断できないところでもある。内容としては悪くないので、頓挫させないように努力するつもりだ。夏ごろまでに企画がまとまって、実際に稼動し始めれば喜ばしいけど、続けるのも結構大変なんだよ…。さ~て、僕はどんなことを書こうかな。本気で考えなくてはいけない。
投稿者 はるお : 01:23 | コメント (106) | トラックバック