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2006年09月25日

本サイトの未来

一時期考えていた「起業するんだ」とか、「NPOつくるんだ」とかいう気持ちが、だいぶ下火になってきました。社会に積極的に貢献することは大切だし、科学や教育問題を大いに議論し、最終的には行政にまで影響を与えられればと願っていたことは事実です。日本の科学教育が自分が良いと思っている方向に変わってくれるのであれば、それを喜ばないわけないでしょう。しかし、そんな社会貢献を目指していますよっ、て大々的にやる必要があるのか、そもそもサイエンスは社会を守るものでもなんでもないわけで、そんな支配的な考えに若干嫌気が差してきた感があるのです。

僕達は、中途半端に知性を持ってしまったから、政治や経済という概念を導入し、現代社会という異質な時空間をつくり上げてしまいました。その流れを汲んで生きることは、そもそもの自然観を見失って、得体の知れぬ不気味な悪魔の言いなりになって動いているかのようです。でも、今ではそれが当たり前。悪魔が作り上げた社会が、いまや正しいルールとなり、権力やお金に振り回される世の中になってしまったように映ります。そんな社会を加速させるのが嫌になってしまった。たとえが悪いですけれど、まぁ、そんな感じなわけです。

純粋に自然がどうなっているのか、科学という手法を使った時の切り口を伝えられればよい。教育に関しては、それさえ叶えられればいいと思っています。寺子屋みたいなイメージが自分にはピッタリ来るのですが、いつでも、どこでも、だれにでも、お金もかからないで楽しめるとなると、メディアは限られてきます。やはり、インターネットを使って個人で頑張って行くしかないかということなんですよ。コツコツ、このサイトを充実させていくことが重要ですね。面白いコンテンツの具現化に向け、頭を振り絞ろうと思います。当面の課題は表現力です…。

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2006年09月24日

全ての次元は等価?

この世界の空間は3次元だけれども、すべての方向は等価なんだろうか。いろいろな方向にものを回転させることができるから、たぶん、x方向も、y方向も、z方向もすべて同じ重みがあるのだとは思うのだが、何となく腑に落ちないのです。3次元のものを2次元に投影した時(景色の絵を描くとか)に、失われる情報ってどれくらいなんだろうか。2次元と3次元の違いは3次元と4次元の違いと同じなのか、よく分からない。ひも理論によると10次元という想像を絶する世界が繰り広げられるわけだが、これらの次元は全て等価だとは思えないんですよね。等価な10次元がなぜ3次元という実際に僕達が観測する次元を構築するのか、説明がついているのだろうか知りたいです。ちゃんと本を読まないとダメですね、そういう時間が取れるように頑張ろうと思います。

投稿者 はるお : 00:39 | コメント (28) | トラックバック

2006年09月21日

そううまくはいかない

研究においても長期計画の提示は求められます。いまや当たり前なのかもしれません。1年目はこうなって、2年目でこうして、3年目でここまで行く。想像力を働かせて、3~5年先くらいまでの成り行きを、こと細かに書き記さなければなりません。本当にそうなるかどうかは別としても…。でも、僕はどうしても思ってしまいます、基礎研究でそんなことを書く必要あるのかと。もちろん、明らかにしたいことは明確です。でも、それを明らかにする行程は、基礎的であればあるほど不明瞭な気がします。こうやったら、うまくいんじゃないの、っということを筋立てて書いてみますが、こんな思い通りに行ったら研究者としてはつまらない。自分が想定もしていなかった新しい事実が生まれて、身体をひっくり返して、頭を抱えて、軌道修正せざるを得ないようなことが起きて欲しいと願っています。なので、いつも「こんなうまくいくはずないだろ」とバカにしながら、研究計画を書いたりしているのです。研究はなるようにしかならない、自然を支配できるはずもないのです。明らかにできることを計画できるほど、人間ってそんなに賢いんでしょうかね。そういう天才もいるのかもしれませんが、僕は自然に振り回される方が性に合っているようです。

投稿者 はるお : 00:56 | コメント (102) | トラックバック

2006年09月12日

おじいちゃんとおばあちゃん

突指した右手中指のリハビリをしてから学校に行っているのですが、関節に痛みは残るものの随分動くようになって来ました。変に中指に負担をかけなければ、なんとも感じないレベルになり、キーボードを打つ時も中指を使えるようになりました。それでも片手で車を運転していて、突然ハンドルを切る動作の時とか、思いのほか力が入ったりして痛んだりします。まだ完全には右手をグーにすることはできず、もうひとふんばりの我慢です。

リハビリには多くの方が通っています。高齢者の方が多く、みなさん70~80歳くらいと思われます。リハビリで多いのは、頚椎や腰椎を牽引するものです。要は、首や腰を引っ張って、強制的にストレッチをさせているわけです。筋肉や靭帯の緊張を取り除いて痛みを緩和させる効果があります。歳を重ね、筋肉が弱ったり、関節が変形したりすると、身体を支えている要所が相当に痛むわけです。でも、それを撥ね返すような笑い声が至るところから聞こえるので、なんだかホッとしてしまったりします。まだまだ日本のおじいちゃんとおばあちゃんは元気なようです。当たり前ですよね、戦争を生き抜いたんですから。来週は敬老の日、うちのおばあちゃんには甘いものでも贈ろうかと思います。

投稿者 はるお : 22:50 | コメント (69) | トラックバック

2006年09月11日

久しぶりのマンガ

いまさらながら、デスノートにはまっています。とても有名なマンガだったようです。同僚から借りて読んでいるのですが、面白くて読むのが止まりません。今日までで9巻まで読み終わりました。あと3巻で完結なのですが、実はこの先は同僚もまだ購入していないようです。続きが読みたくてしょうがないので、彼に催促しなければなりません。って、そんなことはできません…。でも、最後にライト(主人公)はどうなるのでしょう。彼は正義となりえるのか、それとも…。とっても気になります。

このようなマンガが少年誌に連載されているとは驚きました。しかも、僕が高校生まで愛読していた「週刊少年ジャンプ」に掲載されていたようです。当時は、ジャンプで連載されていたマンガが面白くなくなっていました。その後、面白いものが出てきたようにも思いませんでしたが、このデスノートは群を抜いて面白いかもしれません。久しぶりにマンガをグイグイ読んでしまいました。

僕は大学に入ったときにマンガとゲームを一切やめています。高校生まではマンガとゲームが友達でしたが、大学に入って、本当の友達というものを知って、そのような娯楽物が必要なくなったからです。でも、マンガとゲームがつまらなくなったわけではないでしょう。たぶん、我を忘れて熱中してしまうほど面白いものです。だから、それらに恐怖の念を強く抱いています。再び、マンガやゲームに手を出してしまったら、また昔の自分に戻ってしまうんではないかと…。

僕は昔の自分が嫌いです。もちろん、今の自分だってそんなに好きではないのですが、昔よりかは好きな気がします。だから極力後ろを振り向かないようにしています。でも、たまには昔に戻ると居心地がよいものだったりしますね。マンガやゲームに久しぶりに触れる時はそうかもしれません。一方で、辛いときもあります。昔のアルバムを開くと思い出で頭が溢れかえって涙が出そうになります。どちらも過去の自分、どちらの自分も大切にして、また一歩前に進んで行こうと思います。忘れたいこともたくさんあるけれど、どうしても頭の片隅に残っているものなので仕方がありません。それだから新しいことをやろうと今も色々と考えているのかもしれません。

投稿者 はるお : 01:26 | コメント (92) | トラックバック

2006年09月06日

KEKオープンハウス

高エネルギー加速器研究機構の一般公開を見学してきました。11月に行く予定の放射光施設を事前に学んでおこうと考えたわけです。所内の多くの施設が開放されるらしいと聞いてはいましたが、予想以上に隅々まで見学ができて、満足度の高いイベントのように思いました。とにかく、この一般公開は予算と精力が注ぎ込まれているなと、無料送迎バスや展示内容の質から判断できます。スタンプラリーや体験コーナーも用意されていて、大人も子供も楽しめるような“つくり”になっているのです。放射光施設の説明責任が問われるのでしょうか、一般市民に分かってもらおうと懸命になっているようにも受け取れます。

僕が一番見たかったのはフォトンファクトリーと呼ばれる放射光リングです。リングとしては第2世代に当たり、若干小さめの施設なのですが、放射光を発生させる仕組みは全く同じです。実際に電子をどういう風にまわすのか、そのために必要な機器類はどのようなものなのか、そして実験するところはどうなっているのかなど、細かくチェックしてきました。運転を停止しないと普段は入れないようなとこまで連れて行ってもらい、間近で電子を通す管や、大型偏向電磁石を見ることができたので、放射光リングのイメージがかなり明確になったのでした。このリングの直径を大きくしたのが兵庫県にあるわけです。

技術的なことを聞いていても面白いのだけれど、僕が興味を持つのはどうしても自然科学的なことです。一般公開で展示していたものの中で、一番僕を惹きつけたのは、やはり宇宙論のコーナーでしょう。高エネ研は電子と陽電子を衝突させるための大型加速器を所有しています。これら二つの粒子を衝突させることで生成する素粒子を研究しているのです。この加速器では、「CP対称性の破れ」を示したことで有名です。この対象性が破れていることが、この宇宙に物質が反物質よりはるかに多く存在している理由になっているようです。また、より大きなエネルギーで粒子を加速できるようになれば、素粒子に質量を与えているとされるヒッグス粒子を見つけることもできると期待されています。さらに統一場理論の中で、超対称性理論が正しいとすれば、超対称性粒子の発見も待ち遠しく思います。そうなれば、暗黒物質(ダークマター)が一体なんであるのか判明する可能性もありますね。高エネ研で、これらの実験ができるかは分かりませんが、そのような可能性を語ってくれる人と議論できた時間はとても貴重でした。気が付くと、結構話し込んでしまう自分がいました。

スタンプラリーのスタンプを12個集め、キーホルダーとマウスパッドを手に入れました。学校でマウスパッドを使っていなかったので重宝しそうですが、前者は今のところ使い道がないです…。高エネ研では朝永振一郎生誕100年記念展示もやっていたのですが、さすがに時間がなくて見ることができませんでした。彼の人となりは日本のノーベル賞受賞者の中では一番気になったのですが、今回は仕方がありません。今月中なら朝永展はやっているようなので、もう一度行ってもいいかもしれません。けど、「繰り込み理論」をちゃんと勉強してから行った方がいいだろうか…。

投稿者 はるお : 23:51 | コメント (128) | トラックバック

2006年09月02日

無理やりつなげない

次世代文化フォーラム~アート・テクノロジー・サイエンスの領域を越えて~に行ってきました。アートとサイエンスは深いところでつながっています。つながっているというよりかは、全く同じものだといっても構わないと思います。ただ、アートは五感を積極的に刺激するけれども、サイエンスは理性をもって理解することに力点を置かなければいけません。それが違いといえば違いなわけですが、もとは同じ人間の創造力をスタート地点としているわけです。ただ外部に表現する方法が異なるというだけのものなのです。

このイベントも「知の統合プロジェクト」と題しているようですが、最近思うのは、統合というものは無理やり行うものではないということです。自分の知りたい自然現象を理解するために必要なら、統合化という手段を用いればいいだけのように思います。知の統合化の正当性が叫ばれていますが、それは、これまでのやり方では理解が困難だった事象に対して有効な手法だと感じられるからでしょう。あくまで、知の技法のひとつに過ぎないということです。これまでの科学のやり方に行き詰まりを感じたり、そこから新しい知が創出することを期待すると信じられるなら、そのような思考法を採ればよいわけです。無理に学問を糊付けしても、パッチワークのような色彩にしかならず、自分が惚れ込むような美しさには仕上がらないでしょう。パッチワークにもそれなりの良さがありますが、うまくやらないと、ただの継ぎはぎをしている作業に過ぎないわけです。

アートとサイエンスの統合(融合)みたいなことを、このフォーラムで題材にしていますが、まだパッチワークの感が否めません。何を表現したいのかその意図がうまく伝わってこない。アートであろうがサイエンスであろうが、それらの作品には作者の想いが強く込められています。その作品を通じて、感じ取った「世界観」が真に融合しなければ、無理に一つの世界観にする必要はないわけです。統合させるなら、それなりに創造主の意図が重ならなければいけないように思います。

統合化の必要性を感じながらも、その実現が難しいのは、結局、作品の根底がずれているからなのかもしれません。根底がずれていることは仕方がありません。個人がそれぞれ好きなように表現しているわけですから、当たり前です。しかし、そのずれを補正できる術を僕達が持っていません。せめてできることは、そのずれを外挿により推定し、補正を試みるくらいでしょうか。その推論がうまくいけばいいのかもしれませんが、いまのところ極端にうまくいった例は見つかっていないのではないでしょうか。

そうなると、最終的には一人であらゆる表現方法を身につけなければ、それらの表現たちをうまく統合することができないことになります。少なくても、土台の部分は前提条件が揃うようにフォーマットされていなければならない。コンピューターがちゃんと動く理由もここにあるのかもしれませんね。知の統合化は枠組みをつくるだけでは決してうまくいかないでしょう。その土台がでこぼこでは結局何も上には載せられないのです。でこぼこを平らに変換できるようになることを実現できれば理想的ですが、やはり、誰かが一人で広大な更地を提供できるようにならなければいけなくなるような気がしています。

投稿者 はるお : 22:54 | コメント (84) | トラックバック