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2006年10月29日

幸せのフィードバック

幸福は与えるものではないのかもしれません。幸福は自然に溢れ出すもののように感じます。それは愛を与えることによって実現するものですが、結果的に溢れ出すものが幸福であり、しかもそれは伝染します。そう、幸福は伝染するのです。幸せな人を見たら、幸せな気持ちになれる、これが基本的な感情の揺らぎ方のようです。

結婚式のような幸せで溢れかえっている場所にいると、もうこれ以上幸せになるのが怖いと思うほど、幸福を感じられます。恋人と二人で幸せを分かち合っている時と同等、いや幸福の度合いなど比べることに意味などないでしょう。感情が暴走して、涙腺が緩みそうになります。言葉が出なくて、抱きしめたくなります。自分があまりに小さくて、立っていられなくなります。けど、幸せで身の震えが止まらない。こんな状況を意図的に与えようと思ったって、そんなこと誰ができるのでしょうか。自分が幸せになることが、他人を幸せにすることなのです。逆に言えば、自分が幸せにならなければ、他人を幸せすることなど絶対不可能です。

自分の幸せを追求することは利己的ではないはずです。誰かを傷つけたり、犠牲にしたりすることもあるかもしれませんが、許される範囲内で、自分の幸福を追い求めてしかるべきだと思います。それが、最終的に、周りにいる人へ元気を与えたり、気持ちを健やかにしてあげることができると考えられるからです。そのような状態になって初めて、他人を本気で思いやれるような気もします。自分に精一杯の状態を脱するには、自分が幸せであることが必要条件なのではないでしょうか。周りの人に与える影響力は、自分の幸福度が高くなればなるほど大きくなるはずです。家にいようが、職場にいようが、遊びに行こうが、どのような環境でもそれは成り立つ。人生には、常に正のフィードバックがかかっていることを忘れずに!

投稿者 はるお : 22:01 | コメント (87) | トラックバック

2006年10月22日

大きな記憶

今週もいろいろありましたが、やはり一番記憶に残ったのは友達の結婚式でした。実験や科研費申請のことなど、あっという間に頭から抜けてなくなっていきます。徹夜して論文も書き上げてしまってよかった。そんな疲れなど全く感じぬほど、僕は癒されてしまったのです。本当に主役の二人が幸せそうで、そこから滲み出てくるオーラで会場にいた人はみんなハッピーだったに違いない。友達の結婚式がこんなにも心の落ち着くところだったのかと深く認識しました。彼らを見ていると、末永く幸せでいて欲しいと心の底から思います。仲睦まじい姿をいつまでも見ていたい。今更ながら、結婚式をやる意味みたいなものが感じ取れたようです。披露宴はただのセレモニーじゃないんだ。結婚式が彼らや僕らに与えるインパクトは理性と感情を同時に刺激し、強固な記憶となって昇華する。その大きな記憶の痕跡が、将来の心の機微すらも左右してしまうのかもしれません。

本当に素敵な結婚式でした。

投稿者 はるお : 22:55 | コメント (101) | トラックバック

2006年10月18日

虫の視点

政治や経済のニュースは嫌でも耳に入ってくるのに、科学のニュースは耳を傾けないと聞こえてきません。さらに、耳を傾けてもよく分からないので、見てすぐ分かるものをテレビに映すのが最良の策です。政治や経済だって、十分な背景を知っていないと理解できないニュースは山ほどあると思うのですが、科学に関しては背景が必要最低限のものを厳選しているような気もしないでもない。「とにかく何でもいいから科学に興味を持ってもらいたい!」という精神が前に出すぎているかもしれませんね。いや、それが悪いと言っているわけではないのですが、限度を超えると視聴者に媚びているような気がしてならないのです。そうなると、逆に自然の神秘性が失われるように感じたりもしました。

しかし、栗林慧さんの写真はそれを補って余りありました。むしろ、生命の神秘性が浮き出ているようにも感じます。写真の対象は昆虫がメインのようですが、とことん細部に迫ろうという気迫が伝わってきます。その心意気が純粋で嬉しくて、何かを「追い求める」姿が最終的には美しいのだろうなと思ったのでした。確かに視覚に訴えるものは分かりやすいですが、人の心を動かすのは、それをどれくらい本気で追い求めたかで決まるのだな。その追い求めている姿を伝えられるようなコミュニケーションが科学という分野にも必要なんだということでしょう。

投稿者 はるお : 01:08 | コメント (92) | トラックバック

2006年10月13日

実のある秋

論文あり、実験あり、科研費あり、オープンキャンパスあり、結婚式×2あり、引越あり、そしてライブありで、ちょっと10月が怖いです。身体持つんだろうか、さすがにあまりに時間が足りないような気がしてならない(学会に行かないことにしておいてよかった…)。早く今月が終わって欲しいと思うが、終わるということは、これだけのイベントをこなしているという訳で、それを考えると眩暈がします。もっと忙しい人は世の中にたくさんいるんだろうけど、あまり時間に追われることに慣れていないからでしょうね、こういうスケジュールは精神衛生上よくないです。来月になれば、実験に集中できるかな。とにかく11月末の大実験を終えるまで失速しないように安定した走りを保っていきたい。こういう時は、友達と話すのが一番の清涼剤です、忙しいと言っておきながら、昨日の帰りは同僚とファミレスで3時間くらい喋ってしまったのだった…、あぁ、眠い…。

投稿者 はるお : 00:12 | コメント (135) | トラックバック

2006年10月11日

どうでもいい科学

竹内さんがNEWS ZEROに出演するようになってから、科学ニュースとか科学報道に関してさらに良く考えるようになりました。これまでもサイエンスコミュニケーションというものを真剣に考えていましたが、聞き手としての対象が科学に興味を持っている人と持っていない人で大きく対処法が違うように思うのです。僕はどちらかというと科学には興味はあるけど、もう少し踏み入れて考えたい人とか、理系の学生だけど研究を始めたばかりの人を考慮に入れてコミュニケーションの促進を考えていたように思います。もちろん、それはとても大切だと思いますから、今後も必要な活動の一つとなるでしょう。

けど、科学ニュースを聞く人が一般のテレビ視聴者だということを眼前のものとした時、自分のいる立場や視点の位置が少しズレているような気がしてなりませんでした。視聴者は科学ニュースの説明を聞いて何が面白いのだろうかと思ったのです。視聴者が欲しているのは「事実」であることに間違いはないのですが、その中に、いい意味でも悪い意味でも「驚き」がないと関心を抱いてくれないんです。だから、ニュースというのは「良いニュース」と「悪いニュース」ばかりであって、「どうでもいいニュース」は報道されないように思います。

僕がやっている科学って「どうでもいい」ことです。これは自分も素直に認めてしまいます。もしかしたら、将来すごい役に立つ可能性があるかもしれませんが、今現在は「どうでもいい」のです。だから、いくら自分がすごいと思う科学ニュースを見つけて、長々解説してもその面白さは完全には聞き手には伝わらない。たとえビジュアルを駆使して、分かりやすく説明できたとしても、感想は「ふ~ん」かな。まあ、何となくすごいことが伝わればいいような気がします。子供なら喜んで耳を傾けてくれるかもしれませんが、一般的な社会生活を送っている大人たちの反応はそういうもんだと認識しなければいけません。

NEWS ZEROは深夜に放送される報道番組です。子供はほとんど見ていないと考えていいでしょう。だから、科学の教育的解説を語りだすのは大いに勘違い。いかに、見ている大人を唸らせるかということに主眼が置かれます。社会に大きな影響を与える技術の開発が科学ニュースとして流れるのは確かに理に適っていますね。でも、これじゃ、僕らは全然面白くない。そしたら、科学者の考える思考方法を体感させることが一つの方法として考えられます。そこに少し専門知識をスパイスとして混ぜるのが最適なのかもしれません。竹内さんの路線は、あの番組の中では、かなり明確で適切な立場だと思います。あのポジションが確立して行く過程で、番組のあり方が成熟して行けばいいなと切に願うのでした。

投稿者 はるお : 01:57 | コメント (130) | トラックバック

2006年10月03日

あまりに早いノーベル賞

今年のノーベル生理学・医学賞は「RNA干渉」でした。1998年にこの現象が線虫で発見されてから、たったの8年で受賞にこぎつけました。近年まれに見るスピード受賞(ワトソン・クリックでも、DNA二重らせん構造発見から9年後)ではないでしょうか。ノーベル賞級の発見は、いとも簡単にノーベル賞を手中に収めてしまいました。

何がすごいって、細胞内で起こる基礎的な生命現象が、バイオテクノロジーや医療などの応用分野に直接結びついたことでしょう。「RNA干渉」はあくまで、生体に備わっている遺伝子発現調節機構の一つです。2本鎖になっているRNA(dsRNA)はそれと同じ配列を持つ(正確には、相補的な)RNAを分解し、遺伝子発現を抑制する現象を引き起こすのです。遺伝子の発現量は、主に転写因子やポリメーゼ(RNA合成酵素)などにより調節されますが、RNAという転写産物が作られた後でも、そのRNAを分解して、タンパク質の合成量を抑制する機構が存在していたわけです。

この現象は、人工的に遺伝子の発現量を落とす技術としてすぐに応用されました。遺伝子の発現を落とす(ノックアウトする)には、これまではゲノムの中にある遺伝子を取り除くことが第一選択でしたが、ノックアウト動物を作るのは非常に手間のかかることです。それが、抑制したい遺伝子の一部の配列と同じdsRNAを細胞内に入れるだけで、その遺伝子発現を特異的に押さえつけることができてしまうわけです。この非常に簡便なノックアウト技術の導入により、多くの遺伝子の機能が解明されました。また、RNAウィルスの感染も抑制したり、遺伝子発現量を調節できるような遺伝子治療に新たな道が開けるかもしれません。これは、遺伝子機能を解明しようとする基礎研究だけでなく、遺伝子工学的、医学的にも応用範囲が広く、その有用性を疑うことができないことを示しているでしょう。しかるべきして取ったノーベル賞と今回ばかりは言えるかもしれません。

ノーベル財団からの情報はこちらからどうぞ。

投稿者 はるお : 01:33 | コメント (127) | トラックバック

2006年10月02日

自分の好み

「どういう子が好みなんですか?」という、ありがちな質問があります。しかし、僕はこのありがちな質問に正確に答えることができないことがわかりました。一体僕はどういう子が好きなんだろう、そういうことを本気で考えてこなかった気がします。そんなことを考えなくてもいい時間があまりにも長かったんでしょう。ここにきて、本気で自分の抱いている女性観を明確にした方が将来のためにいいように思いました。女性を紹介してもらうにも、明確な人格像を示せないと、相手に失礼な気がします。

しかし、どうしても好みの女性像をしっかり立ち上げることができません。それだけ恋愛経験が少ないからかもしれませんが、それはただのいい訳でしょう。基本的に自分と感性が合うことが大切なはずです。好みの女性を考えることは、自分自身が一体どういう考えを持っている人間なのかを顕在化させることかもしれません。

まず、自分が最も大切にしているものは家族であること。もちろん、友人も含めて身近な人たちは全て大切です。つまり、これで言いたいことは、仕事やお金より(身近な)人間を愛している人がいい、ということです。そして、日常の中に埋もれている小さな幸せを拾い集めて、生活を楽しんでいる人がいいように感じます。お金のために仕事をする必要はありません。なにか自ら文化を創ってしまうような、そんなパワフルなのに、繊細な感性を持ち、それでいて呑気な人が傍らにいてくれたらと思います。そういう意味では、現代社会とは別世界に飛んで行ってしまうことがある人に魅力を感じるのかもしれません。僕に想像力があまりない分、想像力が豊かで、僕が考えもしない秩序の中で生きている等身大の女性には憧れます。

あとは、自然を受け入れられること。別にゴキブリや毛虫が嫌いでも構いません。それは生理的なものですから。社会的規則に縛られて、自然の中に生きていることを忘れてしまっている人間には、あまり好意が持てないのです。いや、別にサイエンスをやれっと言っているわけではなく、自然に身をゆだねたり、自然の声を聞きにいったり、どうでもいいような小さいなことを観察したりする余裕があればいいのです。身近にある小さな発見を無邪気に笑っている姿を見たら、僕も微笑ましくなってしまいます。そういう子だといろんなところに連れて行きたくなっちゃうでしょうね。

また、音楽を心の底から楽しめること。別にうまくなくてもいいのです、(和)音を出したり、リズムを刻んだりすることを純粋に楽しんでいることが重要です。音楽を聴くだけでもいいのですが、できれば何か演奏できると嬉しいもの。でも、これは趣味が合う程度で問題ないような気もします。ヘビーメタルとかはどうしても受け入れられません。

やはり、ぜんぜん女性像が具体化してきません。上記のことを満たす女性なら誰でもいいのかということになります。僕も人間です、実際に会ったときの感触でしか、最終的には判断できないでしょう。そういう意味ではいろんな人と会って、話してみるというのが一番いいのかもしれません。自分のことをもっと知るためにも、いろんな人と出会うことが大切なんでしょう。3年ぐらいしたら、少しはこなれた回答ができるようになっているかもしれません。

投稿者 はるお : 01:07 | コメント (82) | トラックバック