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2007年01月21日

腐った納豆

「納豆ダイエット」、捏造されたデータが使われて問題になっているそうです。僕はこの番組は見ていませんが、この類の情報番組の影響力は凄まじいものです。この「納豆ダイエット」の回の翌日から、店頭から納豆が消えるほどの購買力を生み出すわけですから…。でも、捏造しようがしまいが、この番組での検証方法には科学的な裏付けなど元々ありません。実際に効果のある食品もあるのかもしれませんが、その効果を判定する手法が全く客観性を持っていないわけです。それでも、無理やり効果があるという結論を導いて、その結論を視聴者が鵜呑みにしてしまう。そして、それのまた繰り返し…。科学に携わっている人の多くは、そのいい加減さに虚しさを感じていることでしょう。

結局、テレビで放送されているほとんどの番組はバラエティ番組なわけです。情報源として活用するにはあまりにもお粗末です。他のお笑い番組と同じような尺度で見れることが重要なのかもしれません。テレビが視聴率や金勘定で動いている限り、良質な番組が生まれにくい環境になっているのは確かです。でも、最も国民に影響を与えているテレビというメディアが、視聴者の受身的な姿勢を逆手にとって、不利益を被らせる体質には怒りを感じます。それなら、テレビではドラマとお笑いだけやっている方が、まだましなように思うわけです。

テレビ報道のあり方が変われば、日本が変わる。たしかに、テレビにはそのくらいの影響力があるかもしれません。真に教育的なテレビ番組が作られることは、人間の思考力を豊かにしてくれる糧となるでしょう。その作製には膨大なコストがかかります。放送によりそのコストを回収できるかは難しいところもあると思います。しかし、利益のことばかり考えていたのでは、また同じような事件が起こるだけです。同じ過ちを繰り返してばかりでは、現代人としての利点を活用しているとは言えないでしょう。「あるある」が潰れたのは良いきっかけかもしれません。信頼性の高い科学情報提供のあり方を大学のような教育機関で真剣に考えていきたいと感じています。

投稿者 はるお : 23:54 | コメント (368) | トラックバック

2007年01月15日

「のだめカンタービレ」論考

のだめカンタービレ」を借りて読んでいます。原作者の変態加減に微妙に引き込まれながらも、演奏家として活躍する主人公達の振る舞いには感動を覚えます。そして、音楽の躍動感が人生そのものを表していることに改めて気付きます。音楽は留まることを知らず、実体はなく(言うなら波動)、時間の概念を抜きにしては語れないもの。しかも、二度と同じ音楽が生まれないのは、時間の凍りつく日が来ないから。だから、僕達は何度も何度も音楽を奏で続けているのでしょう。たとえ、それが同じ曲であったとしても。

いい曲であるほど、数え切れないくらい繰り返し演奏されてきたことでしょう。「のだめ」でテーマになっているクラッシク音楽は、その代表といっても過言ではありません。作曲家が亡くなって何百年とたった後でも、演奏家が絶えることなく、その音楽を響かせ続けるのです。その一曲に関わってきた演奏家はこの世界に一体何万(億?)人といるのでしょうか。しかし、それらの演奏で、一度たりとも同じものなど存在しえない、それが音楽の最大の醍醐味であるわけです。作曲家の意図を繊細に汲み、それを忠実に再現する過程の中で、演奏家の数だけの表現が自然と輝きを放つのです。

それを考えると、“作曲家(クリエイター)”より“演奏家(プレイヤー)”の方が人間的で、豊穣なものなのかもしれません。“クリエイター”は作品としてモノが残る一方で、“プレイヤー”は形として何かが残るわけではありません。もちろん、今は録音機材が発達していますから、「演奏家」や「スポーツ選手」など“プレイヤー”と呼ばれる人たちの活動はメディアを介して記録として残ります。しかし、“プレイヤー”達の作品は全て「時間」に依存します。「時間」という概念がなければ、彼らの作品の価値を評価することはできないのです。だから、“プレイヤー”達は、"PLAY" し続けるしかない。音楽を弾き続けるしかない、スポーツをやり続けるしかない、生き続けるしかない。そう、"PLAY" とは人間として「生きる」ことそのものなのではないでしょうか。

宗教的にたとえるなら、“クリエイター”は「神」に相当し、“プレイヤー”は「人間」に相当するのでしょう。だから、“クリエイター”は時に神と錯覚し、驕(おご)り高ぶることもあるでしょう。一方、“プレイヤー”は常にストイックなのかもしれません。しかし、“クリエイター”といえども、人の子には変わりありませんから、“プレイヤー”として多くの経験を重ねていき、その中の一部を結晶化させる作業に全霊を注ぎ込んでいるわけです。それは神に近づくための儀式のようにも映ります。しかし、それはあくまで儀式であるということを“クリエイター”は忘れてはいけないでしょう。

「クリエイティビティ…」、研究に携わっていると、このような単語は耳にタコが出来るほど聞かされます。確かに、研究者も“クリエイター”としての役割を担っています。発見や発明した事実は時間とともに色褪せることはありませんから。しかし、人間は常に“プレイヤー”であることを忘れてはいけません。僕は、"PLAY" にこそ「生」の本質が詰め込まれているように感じます。人生を "PLAY" する覚悟ができた時、僕は人として一つ脱皮できるような気がします。自分が作り出すものに変に固執しないこと、その覚悟が研究に自然と活かされることを望みます。人間の「クリエイティビティ」は常に謙虚でありたいと思っています。

投稿者 はるお : 01:30 | コメント (378) | トラックバック

2007年01月09日

いったい何が解るのか

学術統合化プロジェクトとは、先が見えない仕事だとは思っていたけれど、本当に五里霧中で困っています。年末は、学内関係者(学外もか)のありとあらゆる人物を訪問して、いろいろ話してみたものの、工学系出身者が多いのも手伝って、打開策がひらめきません。人間の解釈の入ったテキスト(つまり論文)をいくら手にかけて、それを教科書のように体系化したとしても、母なる自然は僕らに何も教えてくれないでしょう。僕が欲しているのは、大量の“生”の実験データなのです。しかし、実験科学者が生の実験データを他の研究者と共有しようと考えるでしょうか。全世界の科学者が持っている実験データを、すべて共有することが出来たらと理想を語ることは無意味なんでしょうか。いや、その素地を作ることが僕の仕事なのではないかと信じたいのですが、この目標を達成するのには困難が多いように思えるのです。人間の私利私欲の問題でもあるし、(法律的な意味を超えた)知的財産の問題でもあります。

だから、僕はSPring-8での実験を思いつきました。神経回路の構造情報を大量に集めるための実験を組み立てて、自分自身で“生”の実験データを取得したかったからです。しかし、これだけでもデータが足りません。たとえ、実験が理想的にうまくいって、僕の欲しい情報が全て取れたとしても足りないのです。何が足りないのかというと、“時間”軸方向のデータが全くと言っていいほど無いのです。脳の機能を見ようというのに、時間分解能が高いデータが欠失していては、脳のダイナミクスを再現できません。今後、必ず必要になってくるはずなのです、電気生理の網羅的なデータが…。もう、この時点で、多くの人の協力が必要になってくるのは目に見えています。

マウスの脳で発現している2万個の遺伝子を網羅的に調べて、ネイチャー誌に載せたグループがあります。著者数は何人いるか想像できますか?なんと100名を越えています。ゲノム解読計画と同じように大量の人員をつぎ込んで突き進めた巨大プロジェクトです。これこそビッグサイエンスの成せる業です。僕は以前ビッグサイエンスのあり方について言及しましたが、神経回路構造と電気生理のデータを網羅的に集めるなら、ビッグサイエンスにならざらるを得ないでしょう。それを立ち上げるための起爆剤を、僕が仕掛けることが出来るのでしょうか。そして、私利私欲を顧みず、協力してくれる仲間達はどれくらいいるのでしょうか。このプロジェクトを本気で大々的に立ち上げるなら、この研究計画が完遂したときに“何が解るのか”を明確にしなければなりません。遺伝子発現と神経回路網と電気的神経活動のデータが全て一つのところに集結したとき、僕らは何を理解できるようになるのか、そのビジョンを強烈なメッセージとして打ち出さないといけない。僕がやろうとしていることは“心”の理解につながるものなのか、多少なりとも“高次脳機能”を理解できるものなのか、それとも理解可能な形で提示されるものは何も無いのか。これが明瞭な形で立証されなれなければ、研究を積極的に進めることができないのです。しばらくの間は、問題提起すら難しい悶々とした精神状態が続くのだろうか…。

投稿者 はるお : 01:28 | コメント (281) | トラックバック