2007年02月18日
多変数を同時に扱う土台作り
物事は変数が多ければ複雑になります。なので、これまで理論を構築する時は、いかに単純なモデルを作るか、に心血が注がれてきたように思います。ある事象を説明しうる最も単純な法則を見つけ出すことが科学的な営みだったわけです。しかし、それだけでは説明できない現象が自然界には多く存在します。その後、その複雑性を説明するために、複雑系なる学問が誕生しました。複雑なものを複雑なまま理解するというスタンスです。人間は、複雑なものを複雑なまま理解できるのでしょうか。いや、理解できなくて、なにかしらの形で現象が「再現」できるようになれば、しめたものです。
やはり、多変数の動きを同時に理解することは至難の業でしょう。だから、先人はとにかく還元的に学問を構築していったわけです。もちろん、多くの知が蓄えられました。そして、今こそそれらを「くっつけて」みようというのが僕の携わっている「学術統合化プロジェクト」です。僕が最近何となく感じているのは、この「くっつける」作業は至極丁寧に行った方が良いという事です。コンピューターを使ってむりやり「ガッシャン」じゃなくて、一つずつ一つずつ丁寧に学問を「くっつけて」いくということなのです。時には、適切な変換が必要になることもあるでしょう。多変数を同時に理解することはできないかもしれないけれど、それらを同時に扱えるシステムがあれば、生命の複雑性が見えてくるかもしれません。
それを実現するのに、コンピューターの力が必要になることは確かです。これは、膨大な情報を扱うためには必須なアイテムですが、乱暴に計算させるわけにはいきません。僕はコンピューターで何かが解明されるとは思っていませんから。あくまで問題発見を手助けするためのツールに過ぎないわけです。なので、これまでの科学的知見を丁寧に計算機上で再現させ、その計算結果と実験結果の違いから、新たな事実や関係性の発見が容易になればいいと考えるわけです。
いまは、コンピューターで膨大な変数を扱えるはずです(どのくらい扱えるのかはまだ知らないけど)。僕たちの脳の活動を理解するために必要なあらゆる変数をコンピューターで扱える土台を作ってみたい。空間・時間・質量・運動量・エネルギー・電流のような物理量から、濃度・温度・エントロピーのような熱力学的な状態量に至るまで、あらゆる変数を一つの系で同時に計算できるようにはならないのだろうか。それで、脳活動が再現できなかったら、僕達にはまだ発見できずにいる法則が眠っているということになります。それを見つける(もしくは予想する)ことができるような仕事が達成されなければ、僕の中で「学術統合化プロジェクト」は失敗です。というか、これは数年で終わる仕事じゃない、ライフワークになるでしょう。だって、上に挙げたような多変数を一つずつ丁寧につなぎ合わせていかなくてはいけないのですから。つなぎ合わせるのに必要な実験もたくさんあることでしょう。それをこの大学が支えてくれるかどうかが鍵になります。総長が「知の頂点」を目指したいというのなら、そこまでやらせてくれる環境が必要になります。総長が交代して、それでプロジェクト終了なんてことになったら、もう学問することに嫌気がさすでしょうね。さて、行く末はどうなるのでしょうか、とっても楽しみです。
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2007年02月05日
自然界に理想郷はない
「脳の作動原理」をそう簡単に解明することは出来るのでしょうか。僕達が、どうやって、モノを見て、それをモノと認識し、モノとして意味づけをするのか、そう容易く解ることなのでしょうか。僕らが抱く感情や意識を、科学の言葉で記述できる日が近い将来にやってくるのかは疑問のように思うのです。そんな難しい問題を人間が解けるかどうかも分かりませんし、解けるときはこの世の中に天才が舞い降りてくる時かもしれません。でも、その人のために、多くの知見を用意し、知識を整理することには意味があることのようにも思っています。僕が生きているうちに解らないことでも、100年後や200年後に誰かがパンドラの箱を開けてくれることを期待して…。
僕自身、もう科学で解き明かしたいことは、あまりありません。あえて言うなら「脳の作動原理」が知りたいわけですが、生きているうちに解るかどうかも分からない問題です。だからといって、諦めるわけではなく、それが解決する方向に自分の研究テーマを持って行っていることは確かです。そして、そう簡単に解ける問題ではないから、多くの人の協力が必要なことも重々理解しています。むしろ、多くの人に協力してもらって、少しでも有用な知見を後世に残していきたいと思っているわけです。そういうことに仕事として関われる立場にいることは恵まれています。だからこそ、この状況を活用して、少しでも神経科学の進歩に貢献できればと願っています。
でも、世の中は競争社会。研究者という職業でも、相手を蹴散らして頂点に上り詰めることが最良のような風潮があります。科学全体の進展よりも、自分の業績が大切だという人も多いことでしょう(まあ、それが科学の進展につながるとは思いますが…)。実際、結果(論文)を出さなければ、研究費も取れないわけですし、極端な成果・業績主義に偏ってしまっても仕方がありません。もうそれは、風土として定着してしてしまったとしか言いようがないし、それ以外の客観的評価方法が見つからないという始末です。それだったら、主観的な評価をすればいいだけの話ですが、そのような逆風に立ち向かえる社会ではないのが現状です。
結局のところ、自分が可愛いから科学の進展が伸び悩んでいるのではないかと感じます。自分を犠牲にしてまで科学の発展に寄与しようと思う人などいないのです。それだけ、科学という仕事が生きることと密接に結びついてしまっている。それだからこそ生まれる素晴らしい研究もありますが、それだけでは中々「コト」が進まないことが、やはりあると思います。科学史上最も難しい問題を解くなら、生きることを気にしないで研究に望める体制があってもいいのかもしれません。その中で自己満足を越えた知の追究を行える人材を集める。そのうち大天才が生まれたら、何かブレイクスルーを生み出してくれるかもしれません。この調子だと、ブレイクスルーは相当先のことで、夢物語を見ているかのようです。
でも、正直に言うと、理想郷が生まれる必要は全くないのです。いや、理想郷が生まれないシステムが自然なのかもしれません。そんな不完全なシステムで、なんとか踏ん張っているのが現実の世界であり、今も昔も、そして将来もきっとそうでしょう。文化の発展も、それくらいゆっくりでいいのかもしれません。科学に過度の期待は持つべきではないのでしょう。その科学的作業の過程を楽しむことが最も重要なのです。
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2007年01月21日
腐った納豆
「納豆ダイエット」、捏造されたデータが使われて問題になっているそうです。僕はこの番組は見ていませんが、この類の情報番組の影響力は凄まじいものです。この「納豆ダイエット」の回の翌日から、店頭から納豆が消えるほどの購買力を生み出すわけですから…。でも、捏造しようがしまいが、この番組での検証方法には科学的な裏付けなど元々ありません。実際に効果のある食品もあるのかもしれませんが、その効果を判定する手法が全く客観性を持っていないわけです。それでも、無理やり効果があるという結論を導いて、その結論を視聴者が鵜呑みにしてしまう。そして、それのまた繰り返し…。科学に携わっている人の多くは、そのいい加減さに虚しさを感じていることでしょう。
結局、テレビで放送されているほとんどの番組はバラエティ番組なわけです。情報源として活用するにはあまりにもお粗末です。他のお笑い番組と同じような尺度で見れることが重要なのかもしれません。テレビが視聴率や金勘定で動いている限り、良質な番組が生まれにくい環境になっているのは確かです。でも、最も国民に影響を与えているテレビというメディアが、視聴者の受身的な姿勢を逆手にとって、不利益を被らせる体質には怒りを感じます。それなら、テレビではドラマとお笑いだけやっている方が、まだましなように思うわけです。
テレビ報道のあり方が変われば、日本が変わる。たしかに、テレビにはそのくらいの影響力があるかもしれません。真に教育的なテレビ番組が作られることは、人間の思考力を豊かにしてくれる糧となるでしょう。その作製には膨大なコストがかかります。放送によりそのコストを回収できるかは難しいところもあると思います。しかし、利益のことばかり考えていたのでは、また同じような事件が起こるだけです。同じ過ちを繰り返してばかりでは、現代人としての利点を活用しているとは言えないでしょう。「あるある」が潰れたのは良いきっかけかもしれません。信頼性の高い科学情報提供のあり方を大学のような教育機関で真剣に考えていきたいと感じています。
投稿者 はるお : 23:54 | コメント (103) | トラックバック (0)
2007年01月15日
「のだめカンタービレ」論考
「のだめカンタービレ」を借りて読んでいます。原作者の変態加減に微妙に引き込まれながらも、演奏家として活躍する主人公達の振る舞いには感動を覚えます。そして、音楽の躍動感が人生そのものを表していることに改めて気付きます。音楽は留まることを知らず、実体はなく(言うなら波動)、時間の概念を抜きにしては語れないもの。しかも、二度と同じ音楽が生まれないのは、時間の凍りつく日が来ないから。だから、僕達は何度も何度も音楽を奏で続けているのでしょう。たとえ、それが同じ曲であったとしても。
いい曲であるほど、数え切れないくらい繰り返し演奏されてきたことでしょう。「のだめ」でテーマになっているクラッシク音楽は、その代表といっても過言ではありません。作曲家が亡くなって何百年とたった後でも、演奏家が絶えることなく、その音楽を響かせ続けるのです。その一曲に関わってきた演奏家はこの世界に一体何万(億?)人といるのでしょうか。しかし、それらの演奏で、一度たりとも同じものなど存在しえない、それが音楽の最大の醍醐味であるわけです。作曲家の意図を繊細に汲み、それを忠実に再現する過程の中で、演奏家の数だけの表現が自然と輝きを放つのです。
それを考えると、“作曲家(クリエイター)”より“演奏家(プレイヤー)”の方が人間的で、豊穣なものなのかもしれません。“クリエイター”は作品としてモノが残る一方で、“プレイヤー”は形として何かが残るわけではありません。もちろん、今は録音機材が発達していますから、「演奏家」や「スポーツ選手」など“プレイヤー”と呼ばれる人たちの活動はメディアを介して記録として残ります。しかし、“プレイヤー”達の作品は全て「時間」に依存します。「時間」という概念がなければ、彼らの作品の価値を評価することはできないのです。だから、“プレイヤー”達は、"PLAY" し続けるしかない。音楽を弾き続けるしかない、スポーツをやり続けるしかない、生き続けるしかない。そう、"PLAY" とは人間として「生きる」ことそのものなのではないでしょうか。
宗教的にたとえるなら、“クリエイター”は「神」に相当し、“プレイヤー”は「人間」に相当するのでしょう。だから、“クリエイター”は時に神と錯覚し、驕(おご)り高ぶることもあるでしょう。一方、“プレイヤー”は常にストイックなのかもしれません。しかし、“クリエイター”といえども、人の子には変わりありませんから、“プレイヤー”として多くの経験を重ねていき、その中の一部を結晶化させる作業に全霊を注ぎ込んでいるわけです。それは神に近づくための儀式のようにも映ります。しかし、それはあくまで儀式であるということを“クリエイター”は忘れてはいけないでしょう。
「クリエイティビティ…」、研究に携わっていると、このような単語は耳にタコが出来るほど聞かされます。確かに、研究者も“クリエイター”としての役割を担っています。発見や発明した事実は時間とともに色褪せることはありませんから。しかし、人間は常に“プレイヤー”であることを忘れてはいけません。僕は、"PLAY" にこそ「生」の本質が詰め込まれているように感じます。人生を "PLAY" する覚悟ができた時、僕は人として一つ脱皮できるような気がします。自分が作り出すものに変に固執しないこと、その覚悟が研究に自然と活かされることを望みます。人間の「クリエイティビティ」は常に謙虚でありたいと思っています。
投稿者 はるお : 01:30 | コメント (57) | トラックバック (0)
2007年01月09日
いったい何が解るのか
学術統合化プロジェクトとは、先が見えない仕事だとは思っていたけれど、本当に五里霧中で困っています。年末は、学内関係者(学外もか)のありとあらゆる人物を訪問して、いろいろ話してみたものの、工学系出身者が多いのも手伝って、打開策がひらめきません。人間の解釈の入ったテキスト(つまり論文)をいくら手にかけて、それを教科書のように体系化したとしても、母なる自然は僕らに何も教えてくれないでしょう。僕が欲しているのは、大量の“生”の実験データなのです。しかし、実験科学者が生の実験データを他の研究者と共有しようと考えるでしょうか。全世界の科学者が持っている実験データを、すべて共有することが出来たらと理想を語ることは無意味なんでしょうか。いや、その素地を作ることが僕の仕事なのではないかと信じたいのですが、この目標を達成するのには困難が多いように思えるのです。人間の私利私欲の問題でもあるし、(法律的な意味を超えた)知的財産の問題でもあります。
だから、僕はSPring-8での実験を思いつきました。神経回路の構造情報を大量に集めるための実験を組み立てて、自分自身で“生”の実験データを取得したかったからです。しかし、これだけでもデータが足りません。たとえ、実験が理想的にうまくいって、僕の欲しい情報が全て取れたとしても足りないのです。何が足りないのかというと、“時間”軸方向のデータが全くと言っていいほど無いのです。脳の機能を見ようというのに、時間分解能が高いデータが欠失していては、脳のダイナミクスを再現できません。今後、必ず必要になってくるはずなのです、電気生理の網羅的なデータが…。もう、この時点で、多くの人の協力が必要になってくるのは目に見えています。
マウスの脳で発現している2万個の遺伝子を網羅的に調べて、ネイチャー誌に載せたグループがあります。著者数は何人いるか想像できますか?なんと100名を越えています。ゲノム解読計画と同じように大量の人員をつぎ込んで突き進めた巨大プロジェクトです。これこそビッグサイエンスの成せる業です。僕は以前ビッグサイエンスのあり方について言及しましたが、神経回路構造と電気生理のデータを網羅的に集めるなら、ビッグサイエンスにならざらるを得ないでしょう。それを立ち上げるための起爆剤を、僕が仕掛けることが出来るのでしょうか。そして、私利私欲を顧みず、協力してくれる仲間達はどれくらいいるのでしょうか。このプロジェクトを本気で大々的に立ち上げるなら、この研究計画が完遂したときに“何が解るのか”を明確にしなければなりません。遺伝子発現と神経回路網と電気的神経活動のデータが全て一つのところに集結したとき、僕らは何を理解できるようになるのか、そのビジョンを強烈なメッセージとして打ち出さないといけない。僕がやろうとしていることは“心”の理解につながるものなのか、多少なりとも“高次脳機能”を理解できるものなのか、それとも理解可能な形で提示されるものは何も無いのか。これが明瞭な形で立証されなれなければ、研究を積極的に進めることができないのです。しばらくの間は、問題提起すら難しい悶々とした精神状態が続くのだろうか…。
投稿者 はるお : 01:28 | コメント (69) | トラックバック (0)
2006年12月20日
韓国のクローン犬
ソウル大でメスのクローン犬が誕生したそうです。韓国のクローンと聞くだけで信憑性を疑ってしまいますね。しかし、今回の発表だけでは、真偽を確かめる方法もありません。去年、同グループが作成したオスのクローン犬「スナッピー」を引き合いに出して、その妥当性を考察してみました。
2005年8月に世界初のクローン犬誕生の報告がNatureに載りました。
しかしながら、黄禹錫のヒトES細胞捏造が12月に発覚し、クローン犬にも疑いのまなざしが向けられ、Nature側で犬のDNA鑑定をすることになりました。その結果がこれとこれの2報です(2006年3月)。
この検査により、クローン犬「スナッピー」は本物のクローンだと認定されました。では、どのような検査を行ったのでしょうか。それは信じられるものなのでしょうか。
まず、スナッピーがクローンであることを証明するためには、少なくとも2つの事実が示される必要があります。
1.体細胞を供給した犬の核DNAがスナッピーの核DNAと一致すること
2.未受精卵を供給した犬のミトコンドリアDNAがスナッピーのミトコンドリアDNA
と一致すること(ミトコンドリアは母性遺伝だから)。
2連報のうち、最初のDNA鑑定は、NIHやプリンストン大学のグループが行いました。彼らのデータを読んでみると、次のような結論が導けます。
・体細胞を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと一致した。
・体細胞を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と異なっていた。
これでは、不完全ですよね、未受精卵を提供した犬のミトコンドリアDNAと一致するのかどうかのテストが行われていませんから。実際、彼らは未受精卵をサンプルとして供給されなかったことについて言及しています。
そこで、2報目に未受精卵をサンプルに含めた検証がなされています。しかし、検証した研究機関は、スナッピーを作ったグループが所属するソウル大の調査チームです。そのデータを読み解くと、
・体細胞を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと一致した。
・体細胞を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と異なっていた。
・未受精卵を供給した犬のミトコンドリアDNAは、スナッピーのミトコンドリアDNA
と一致した。
・未受精卵を供給した犬の核DNAは、スナッピーの核DNAと異なっていた。
つまり、検証結果は、ソウル大のものがあれば十分クローンを証明できるものではあります。ソウル大は未受精卵をサンプルとして用いた後半2つの実験結果を持っているため、この結果が事実であるなら、クローン犬の存在は、めでたく立証されるわけです。
なので、ソウル大の検証グループが本当のことを言っているかどうかが大変重要な要素になります。まさか大学ぐるみで捏造に関わっているとは、到底思えないので、そこは彼らの実験データを信じるしかありません。今回の報道に関しても、まだデータは公開されていませんし、さらにデータが大学によって検証されたとしても、それが本当であるかどうか確証はありません。第3者をどういう立場に置く必要があるのか考えさせられます。ソウル大の調査機関が正常に機能していることを祈りつつ、今回の事実が本当であることを願っています。
投稿者 はるお : 01:48 | コメント (80) | トラックバック (0)
2006年12月14日
機はまだまだ先
科学革命に憧れはあるものの、そう簡単に革命が起こることはありません。今日も平凡な知見、平凡な考察が繰り返されます。こういうことができれば、凄いことが分かるぜと思いついたって、それを実現するには確かな技術が必要なのです。いま出来ることギリギリのことをやるのが研究なわけです。それ以上のことは、妄想に過ぎなくて、機が熟するまでは忍び続けなくていけないわけです。革命を起こすための条件が全て揃うまで…。
しかし、このご時世、科学者もサラリーマンです。3年もすれば任期が切れてしまい、その間に成果が出なければ、研究者をやっていられなくなります。一発の大革命より、安定した科学的事実の提供が求められます。既存の枠組みを壊す必要などありません。むしろ、その枠組みの中で堅実に業績を積み重ねていく人が勝ちます。与えられた仕事と割り切れば、意外とスムーズに仕事が進むのかもしれません。本当に頭のいい人は、冒険心と堅実さを良いバランスで転がしているのだと思います。
僕が今取り組んでいる仕事は、結局3年で全体像の見通しがつかないだろうと予想されるわけです。10年あれば、形が浮き出てくると感じられるけれど、そんな長期的なプランは現実的に受け入れられません。ちゃんと、他人様が認めてくれるような仕事を並行させるべきだろうか。でも、自分の興味がそこに湧かなければ、結局中途半端なものを作ってしまうでしょう。なかなか適当に研究を進めることができないのが僕の弱点なのかもしれません。
投稿者 はるお : 23:53 | コメント (72) | トラックバック (0)